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中2生5.23節目の人権学習「学校にかける願い」(前編)

2022/05/31

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

年3回、3年間で9回実施する節目の人権学習

 もへちゃんは先生時代、

  • 5.23
  • 10.31
  • 1.28

の年3回、3年間で計9回、部落差別を題材にした人権学習にとりくんでました。

 それらを「節目の人権学習」と呼んでました。

 「5月23日」が節目の理由は、こちら ↓ で書きました。

 まだお読みで無い方は、ぜひお読みくださいm(_ _)m

中1生の5.23節目の人権学習

 もへちゃんがとりくんだ人権学習のうち、中1生の5.23節目の人権学習

の2つは、本ブログで紹介しました。

 そこで今回は、中2生の5.23節目の人権学習でとりくんだ「学校にかける願い」を紹介します。

学校にかける願い

授業のねらい

 学校建設・再建への熱意を通して、被差別の立場にある人が差別に立ち向かい、差別のない世の中の実現を自らの手で進めていこうとする力強さ、ねばり強さ、力を合わせて進んでいこうとするあたたかさを感じさせる。

1時間目

もへちゃん
もへちゃん

 まずDVD「草太の誓い」を視聴し、昔の人達の生活から、差別の状況について知らせました。

草太の誓い(渋染一揆)

「草太の誓い」あらすじ

 時は幕末、貧しい竹野村に、草太という利発な少年とゆいという優しい姉がいた。

 父の岩助はやせた田畑を耕し、馬や牛の皮を剥ぐ仕事をしている。

 母は亡く、2人は祖母のおばばに育てられていた。

 春、草太とゆいは、怪我をした侍の子ども、弓之進を助け、おばばに介抱してもらう。

 弓之進は感謝するが、

 草太たちは卑しい者ゆえかかわることのないように

と、供の侍に告げられる。

 そのため、町で再会した草太にそしらぬ顔をするのだ。

 草太はさらに、古着屋からさげすまれ、百姓の子どもの稲吉たちから、神社の境内で石を投げられる。
 いわれのない差別に怒る草太に、おばばは村の者の差別の歴史を語るのだった。

 そこへ弓之進が詫びに来て、身分差別のある社会を自分たちで変えるのだと励ます。

 その年は大かんばつとなり、年貢が納められない人が大勢出た。

 奉公に出された稲吉は、ゆいの心尽くしを泣きながら払いのけた。

 稲吉をかばうゆいの言葉に、草太は気づく。

 村の者への差別は、町民や農民の不満をそらすため、侍が仕組んだことではないか。

 その時、村役人が来た。

 年貢未納のため、岩助を縄をかけて引っ立てるのは同じ竹野村の者、それは村の者の務めだった。

 草太は、心の底から身分制度を憎み、差別に立ち向かうことを誓う。

 その頃、日本各地で一揆や打ちこわしが起った。

 岡山藩は倹約令で、草太と同じ身分の人々に、一目でわかる服装を強いる。

 人々は立ち上がり命令をはねかえした。

 後に「渋染しぶぞめ一揆」とよばれ、差別解消の運動へとつながって行くのである。

筑前竹槍一揆

もへちゃん
もへちゃん

 次に、福岡であった歴史的事実として「筑前竹槍一揆」(解放令が出された後に起きた)について知らせ、身分差別の制度の廃止がスムーズに進行しなかったことを知らせました。

読み物資料「筑前竹槍一揆」
現代のドンカン道

 天気の良いある日、私はドンカン道を歩いた。

 太宰府天満宮のお祭りの行列が「ドンドン、カンカン」とかね、太鼓を鳴らしていく道、それでドンカン道と呼ばれるようになった。

 ここを一揆が通ったとですよ。

と、案内してくれたお年寄りが話しだしたので、わたしはびっくりした。

 筑前竹槍一揆は明治6年(1873年)のできこと。

 今から150年ちかく前だ。

もへちゃん
もへちゃん

 その一揆の通った道を知っている人がいるなんて。

明治6年(1873年)

 明治6年は政府の重要な改革が行われた年だ。

 徴兵制度が始まった。

 江戸時代は戦争に行くのは武士の義務だった。

 しかし、明治時代になり、身分制度が廃止(解放令)されたため、全ての20歳の男子にその義務が課せられた。

 多くの家庭では働き手を取られて、生活への不安を抱えることになった。

 一方、身分制度が廃止された時、差別されていた人たちは、

 これでみんなと同じ生活ができる。

と喜んだ。

 それまで行けなかった風呂屋や、酒屋へ顔を出し、仕事先では食事の際に差別待遇をしないように要求した。

 皆が当たり前にしていることを自分たちにも認めてほしいと望んだ。

 そのことが、周りからの反発を呼んだ。

 それまでの江戸時代の身分制度のもとで約束事として守ってきたことを、急には変えられないという気持ちからであった。

 その反感が一揆の中にふき出し、村の焼き打ちへとつながった。

 明治6年6月、嘉麻郡庄内村で、米の仲買人との争いから始まった騒動は、一揆となって福岡県北部全域に広がった。

 6月16日未明から、米の値段の引き上げや新政府の新しい政策の取りやめを要求して、米問屋や庄屋宅などを打ち壊しながら、県庁を目指して行進していった一揆勢は、6月20日、福岡市近郊の堀口村に達した。

 一揆勢は、堀口村の住民に対して、新政策への反対と一揆への参加を要求し、

 参加しないなら村を焼き払う。

と言い放った。

 堀口村の住民は

 新政府への反対は、江戸時代の身分制度に戻ることと同じことだ。

と言い、一揆への参加を強く断った。

 これに怒った一揆勢は、県下でいち早く建てられた堀口村の小学校に火を放ったほか、民家にも火を放ち、堀口村全体を焼き払った。

 一揆は、村や町の金持ちの家、庄屋などの村役人の家をこわしたり、国・県の役人をつかまえて殺害したりしたが、村や町で火をつけることはなかった。

 しかし、もとの差別されていた人たちの家はあちこちで放火された。

 村役場33カ所、学校27カ所、電信柱181本焼き払った。

 一揆への参加者は、10万人とも30万人とも言われている。

再び、現代のドンカン道

 お年寄りはさらに話を続けた。

 竹槍をもった一揆の人たちは、この道を抜けて太宰府の方へ向かったんよ。

 一揆は解放令(身分制度の廃止)に反対していたからね。

 あちこちの村が焼かれた。

 私は目を細めて、今、通ってきたばかりの坂道を見た。

 なんだか、一揆の押し寄せる、ワーワーというざわめきが聞こえて来たような気がした。

もへちゃん
もへちゃん

 なぜ一揆の人々は、差別されていた人達が住む所を焼き討ちにしたのだろう?

 新政府への不満を、差別されていた人たちにぶつけた。

 自分たちと同じ生活をしようとするのが許せない。

 やつあたり!

 自分たちの生活も苦しいのに、以前差別されていた人たちだけいろいろ要求する
のが許せない。

 今まで差別してきたので、急に意識を変えられなかった。

もへちゃん
もへちゃん

 そう。

 制度が変わっても、人々の心の中に差別をする心が残ってたんやね。

もへちゃん
もへちゃん

 じゃあ、焼き討ちにあった人々は、その後どうしたと思う?

 次の時間、考えようね。

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

『学び合い』の考え方で実践する人権学習「血湧き肉躍る人権学習」

 もへちゃんは『学び合い』の考え方による授業づくりに出会ってからは、節目の人権学習も『学び合い』の考え方で実践してきました。

 『学び合い』の考え方で実践する人権学習のことを、もへちゃんは「血湧き肉躍る人権学習」と名づけてました(^^)

 本ブログでも、何度か報告しています。

「血湧き肉躍る人権学習」の動画

 人権学習「学校にかける願い」も「血湧き肉躍る人権学習」としてとりくみました。

 そのことは「Find!アクティブラーナー」のダイジェスト版(42秒)で垣間見ることができます。

ダイジェスト [42秒] | ウェブで授業研究 Find!アクティブラーナー
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次回予告

 次回は、人権学習「学校にかける願い」2時間目について報告いたしますm(_ _)m

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