2022/06/08
はじめに
5.23節目の人権学習
狭山事件
いまから37年前の1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。
警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。
女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
部落解放同盟 中央本部 「狭山事件とは」より引用
石川一雄さんが別件逮捕された日、それが5月23日です。
狭山の教育課題
石川さんは部落差別の結果、あまり学校に行っていません。
当時の先生たちは「私のことなどほったらかしにした」のだそうです。
たまに行っても勉強はわからず、
- 「学校にこないから」
- 「意欲がないから」
とほったらかしでした。
背景に生活の重みや厳しさがあり、それこそが部落差別の結果だったのに…。
その結果、石川さんは弁護士が自分を守る人ということさえも知らず、虚偽の自白をでっちあげられてしまいました。
「第2、第3の石川さんを出さない教育が営まれているか」それが狭山の教育課題です。
詳しくは、こちら ↓ をお読みくださいm(_ _)m
学校にかける願い(2時間目)
授業のねらい
学校建設・再建への熱意を通して、被差別の立場にある人が、差別に立ち向かい、差別のない世の中の実現を自らの手で進めていこうとする力強さ、ねばり強さ、力を合わせて進んでいこうとするあたたかさを感じさせる。
2時間目
読み物教材「学校にかける願い」(前半部分)
できたぞ。
中をそうじして、はよ使えるごとしとこう。
よし、次はよか先生ば見つけてこな。
村の人たちが、口々に言いながら取り囲んでいるのは、建てたばかりの学校の校舎です。
学校といっても、今のように大きな建物ではありません。
教室も2つぐらいの木造の学校です。
けれども、学校を見る人々の顔は、誇らしそうです。
なぜ、こんなに学校の完成を喜んでいるのでしょうか。
学制発布! しかし日本の様々なところでは…
1872年(明治5年)、秋のことでした。
その年の夏、明治政府から「学制(学校を作って子どもたちに教育を受けさせられる制度を定めた規則)」が出ました。
しかし、
子どもも、立派な働き手ばい。
学校に行っとる間は働けんやん(働けないじゃない)。
学問やら必要なか。
紙やら筆やらにお金を出して学校に行かせるやら、田んぼに草の生える基たい。
学校ばつくるていうても、そげな金はうちの村にはなかろうもん。
そんな声が多く、学校はなかなか広まりません。
新しく校舎を建てた所はほとんどなく、たいていはそれまでの寺子屋やお寺、倉庫を学校にしたものでした。
学制発布! 堀口村の場合
そんな中、堀口村では、「学制」が出されたことを知ると、すぐに学校をつくる相談を始めたのです。
去年の「解放令(身分制度の廃止)」で、おれたちも平民になった。
博多の町に出ていくと、中に入れてくれん店やらあるばってん、これからは「万民平等」の世の中たい。
どんどん世の中に出ていって、差別のなくなるごと、していかないかん(していかなければならない)。
そうたい。
今まで、うちの村のもんを差別しとった悪い習慣ば変えていかな。
それには、子どもたちに新しいことを勉強させな。
学校ば作って、子どもたちに教育を受けさせるったい。
それがよか。
なんとかして、みんなで村に学校ばつくろうや。
こうして村の人たちは、お金や木材や労力を出し合って、1872年10月、堀口村に学校を作り上げました。
さらに、県庁に、当時のお金で150円の負担金を添えて、
学校をつくりましたので認めて下さい。
という届け出を出しました。
こうして、堀口村では、差別されない新しい世の中への希望をもって、学校が始まったのでした。
福岡市同和教育研究会「ぬくもり」より引用
質問1
新政府の政策は、なかなか浸透しなかったんだけど…。
その中で堀口村はいち早く学校を作ったんだ。
では問題です。
堀口村の人たちは、なぜ学校を作ることに積極的だったのだろう?
新しい世の中に希望をもっていたから。
自分の子ども達には、教育を受けてほしい。
学校で学ぶことで、本当に差別がなくなると思った。
そうやね(^^)
村の人々は、「世の中を変えていくためには、教育が必要である」ってと考えてたんやね。
ところが…
読み物教材「学校にかける願い」(後半部分)
「解放令」が出た後、差別された人たちの中には、これまでの差別するきまりやしくみをなおし、周りの人たちと同じ生活をしていく動きが出てきていました。
しかし、周りの人たちには、そのような動きは「がまんならない」ものだったようです。
筑前竹槍一揆
1873年、新政府の方針に不満をもっていた農民たちが中心になって、筑前竹槍一揆がおこりました。
農民たちは、政府の新しい方針に反対する要求を掲げて、県庁をめざして進みました。
途中の村々に参加を呼びかけ、一揆の人数はたちまち数万人にふくれ上がりました。
一揆の農民たちの要求と、差別されていた人たちの新しい世の中への要求は、相いれないものがあり、一揆は、堀口村も襲って来たのでした。
大変だ。
一揆はこっちに、向かって来ようぞ(来てるぞ)。
なんで、俺たちが。
「解放令」は出たばってん…
俺たちはまちごうとらんのに…
一揆は、村を焼き払いました。
およそ400戸ほどあった家は燃え上がり、黒煙がのぼりました。
せっかくつくった学校も焼かれてしまったのです。
こげんなってしもうて(こんなになってしまって)、今日からどげんして(どうやって)暮らしていけばよかとね。
焼け残ったものもあるけん、食べ物やら何やら都合つけおうたら、何とかなるくさ(何とかなるよ)。
家も建て直そう。
それどころじゃなかろうもん。
うちはもう、金出しきらんばい。
また、みんなが自分の出せるもん出したらよか。
お金でも、働き手でも…。
勉強しとかな、世の中のおかしいこともわからんやろうが。
そうたい(そうだ)。
こげな(こんな)目にあわんですむ世の中にするには、やっぱり学校がいる。
よし。
家の建て直しが終わったら、次は学校の建て直したい。
よし。
村の大部分が焼き討ちに合った中から、人々は立ち上がりました。
家を建て直し、仕事に精を出し、次の年にはもう学校も建て直したのです。
それも、前よりも大きな学校を。
その後の堀口村
堀口村の学校は、子どもたちでいっぱいになりました。
それだけではありません。
建て直した1年後、県から土地を払い下げてもらい、さらに大きな学校を建てることになったのです。
1875年(明治8年)、やっと福岡県にも学校が増え始めたころのことでした。
福岡市同和教育研究会「ぬくもり」より引用
質問2
前の時間に勉強した「筑前竹槍一揆」が堀口村を襲ったんやね。
家も学校も失ってしまった人々はどんな気持ちがしただろう?
これから毎日の生活が大変だ。
どうしたらいいのか分からない。
一揆を起こして、村を焼き払った人たちが憎らしい。
差別をしている人たちが憎らしい。
読み取れるのは、「恨み」や「憎しみ」だけかな?
村の人たち同士で助け合おうとしている。
こんな困った中で、学校まで建て直そうとしている。
そう!
この2人の意見は、「堀口村の人々が学校を再建しただけでなく、それも以前より大きなものを建てた」ってことから出てきた意見やね。
2人は、堀口村の人々の願いと熱意に気づいたんだ。
素晴らしい!
質問3
では最後の質問!
堀口村の人たちが学校を再建したことから、感じとれるメッセージとは?
立ち上がることで、差別に負けないという強い気持ちを世の中の人々に示したい。
よく気づいた!
堀口村の人々は、当時の差別をなくすことだけでなく将来もずっと差別のない社会になることを願って、行動したんやね。
子どもに絶対、教育を受けさせたい。
学校で教育を受けることが、差別をなくすことにつながる。
差別をしている人もされている人も、学校で正しい知識を得ることで、差別がなくなる。
この3人の意見は、うちの中学校で「年3回、3年間で9回の人権学習をすることのこだわり」の理由を見抜いてる。
素晴らしい!
そうなんだ、「無知や偏見」が「差別」を生みだしているんだ。
3年間で
- 知る…正しいことを学ぶことで、公正な判断ができること
- 感じる…差別に対して、おかしいと感じること
- 行動する…差別を許さず、具体的に行動していくこと
そんな人間に育って欲しいと思ってる。
でも…
「差別を許さない人間になってほしい」ってことは、裏返すと「差別は現在でも残ってる」ってこと。
差別を残してしまったこと、大人の代表として謝ります。
ごめんなさいm(_ _)m
けど、君たちが活躍する将来には、無くしていきたい。
僕は闘います。
だから君も、ともに頑張ろう!
一緒に差別を無くしていこう!
おわりに
堀口村の人々の「学校にかける思い」の強さには、わけがあります。
学校を建てた1872年から遡ること72年前の1800年(寛政12年)、その事件は起こりました。
寛政5人衆
寛政12年 (1800年)、御笠川対岸の芝居小屋では「葛の葉狐」という芝居が行われており、連日大盛況であった。
ある日、芝居見物に来ていた黒田藩の武士が酒に酔って乱暴狼藉を働いた。
芝居見物に来ていた若者5人が、その武士を袋たたきにして川に投げ込んだ。
この武士は藩から切腹を命じられ自害したが、このままでは武士の面目が立たないため、どうしても犯人5人を捕まえなければ。
しかし、芝居見物に来ていた町人たちは口を固く閉ざし、犯人はわからなかった。
その時、犯人5人は川を渡って松原に逃げたという情報をもとに、犯人は堀口村の人間だとして、藩の役人が村へやってきて
「5人の若者を差し出さなければ村中を焼き払い、所払いにする」
という厳命が下された。
当時、厳しい身分制度の下で、芝居見物に行けない堀口村の住民が犯人ではないが、無実であっても5人の若者を差し出さなければならなかった。
幾日もの協議の末、14歳から20歳の5人が選ばれ、10月30日に刑場で処刑された。
この若者の亡骸は遺族にも返されず、そのまま無縁墓地に葬られ、村では葬儀もできなかった。
不憫に思った松源寺の住職が、5人の名前を密かに過去帳に残していた。
博高連だより56号より引用
もへちゃんは、この事件を
- 濡衣秘録 寛政五人衆(中川鉄太郎著、解放出版社刊)
- 絵本「いのちの花」(文 そのだひさこ、絵 丸木俊、解放出版社刊)
の2冊の本で知ってました。
この2冊は所持してます!
また
- 人権啓発映画「さらし笛」
でも見たことがありました。
どの作品でも、差別により、14歳から20歳の我が子を失わなければならなかった親たちの悲しみ、苦しみ、やりきれなさが描かれてました。
この寛政5人衆の事件が起こったのが、堀口村だったのです。
差別により、我が子が殺された親たちの想い…
寛政5人衆の事件での、差別に対する憎しみ、怒りが、それから72年後の堀口村での「学校にかける願い」に繋がっているのです!
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