2021/04/09
はじめに

学校では、新年度がスタートしました。
4月は、行事が目白押しです。
以前、4月の行事数を数えたことがあります。
学校があっている日数自体は、20日より少なかったと記憶しています。
で、行事の回数は50個くらいありました。
始業式から始まり、教科書配布、入学式、発育測定(昔の言い方だと「身体測定」)、対面式、部活動紹介、歓迎遠足…
そんな数多い行事の1つに、テストがあります。
今回紹介するのは、その「テスト」のことを書いた通信「学級記録 No.2」(1994年4月?日…日付を書いてませんでした(^^;))です。
テストの話

もうテスト!
たまらんなぁ~(>_<)

テストなんか、なかったらいいのに

テストなんて、誰が発明したとかいな?
テストを喜ぶ人って、そんなにいない。
何を隠そう僕だって、テストは嫌いだった・
クラスの平均点が70点くらいの時に、8点をとって、担任の先生から怒られたこともある。
そんな僕が学校の先生になって、テストのことを調べてみた。
- にっくきテストを誰が始めたのか?
- 何で始めたのか?
を。
残念ながら、「誰が始めたか」は、わからなかったけど、何で始まったかは、ちょっとだけわかった。
テストが始まったそもそものわけは、先生たちの教えたことが、生徒の中にどのくらい入ったかどうかを調べるためにあるらしい。
要するに、先生が「自分の教え方」を反省するためにあるわけだ。
それともう1つ、君たちにとっては、学習したことがどのくらい自分のものとなっているかを調べるためにあるわけだ。
4月11日の1、2時限目にあった国語・算数のテストは、まさに君たちの今までやってきた学習が、どれくらい自分のものになっているかを見るものだ。
(このクラスは中1生なので、4月にあったこのテストは、数学ではなく「算数」でした)

漢字、憶えてないもん(>_<)

算数、わからんけん、好かん(T_T)
という人の「つまずき」の場所をはっきりさせ、そこから「夢」に向かって羽ばたく準備を、先生達が手伝えるようにするのが、今度のテストだった。
言わば、中学校の勉強が始まる前の、1人ひとりのスタート地点を見極める大切なテストってわけだ。
おわりに

八ッ塚実さんの「学級記録」より…テスト論
今回、紹介した通信内に
そんな僕が学校の先生になって、テストのことを調べてみた。
とありましたが、実は、このブログにちょくちょく出てくる「八ッ塚実」さんが書いた「学級記録」を読んで、インスパイアされ、この通信を書きました(^^;)

少し長くなりますが、紹介します。
1年4組学級記録 No.24
6月14日
採点を終わって
1学期の中間テスト、彼らにとっては、はじめての体験でした。
その採点もおわった今、テストについて胸をよぎるいくつかの想いがあります。(八ッ塚)
- テストというものは、教育の歴史の上でいつごろから始まったのだろう。どこの誰がはじめたのだろう。
- 最初に始めた人は、きっと奥ゆかしい心の持ち主だったにちがいない。たぶん、その目的は
- 「自分のやったことは、子どもたちに理解されただろうか」
- 「あの内容は、ふさわしいものだったのだろうか」
- 「やり方は、あれでよかったのだろうか」
このようなことを調べることだったにちがいない。
- いずれにしても、「これから、自分はどのように仕事を進めていこうか?」と考える、反省の材料を得るためのものだったにちがいない。
- テストの結果、その「ほこ先」は、「教えた者」に向く。それは、教えた者の自己告発でなくてはならない。あばき出されるのは、自分の教育理念の、教育法の、甘さであり、欠陥である。
- 子どもに対しては、テストはやさしく、暖かいものであったはずた。「もっと、わからせてやりたい」「もっと、かしこくしてやりたい」という、はじめのココロザシが貫かれていたら!
- そのココロザシは、どこへいってしまったんだ。いつから、今みたいな残酷な、冷酷なものに変わってしまったんだ。
- 序列、ふるいわけ、品定め。1度でも悪い点を取ろうものなら「無能力者」のラク印が押される。ある日、ある時、たまたま取ったにすぎない点数は、ていねいに記録され保存される。
- 子どもの学力は刻々と変わるというのに。1秒もとどまることはないというのに。
- 次々と採点で出てくる結果は、2つの意味でぼくの胸をうつ。その1つは、「自分の自己満足」について
- 「あれだけ念を押したのだから」
- 「あそこはウマく教えといたから」
- 「みんなの反応があったから」
そう思ったところが、わかっていない人がいる。「これだけで十分わかるはずだ」と自分だけで判断する態度は、反省しなければならない。
- もう1つは、「責任を子どもになする気持ち」について
- 「勉強せんからじゃ」
- 「聞かんからじゃ」
- 「このアホンダマが!」
教育とは、「子どもと教員との、うるわしい共同作業」だと言うのに。
- テストが、そのホコ先を子どもに向けると、子どもたちは、その結果でとがめられはじめた。子どもをとがめるオトナの態度は、ますますエスカレートしていく。
- 一番困ったことは、子どもたちに「まちがいを許さない」ことだ。「まちがいは悪だ」ときめつけることだ。
- その結果は?
- 「まちがうまいとする」
- 「はじをかくまいとする」
- 「まちがう自分はダメなのだ」と思いはじめる。
- 自転車に乗らなければ転ぶことはない。水に入らなければおぼれることはない。でも、永久に乗れるようにならない、泳げるようにならない。何もしない者は、失敗することはないのだ。
- 何かを求めているから、何事かを成しとげようとしているから、失敗がある。子どもは、失敗した時こそ、かしこくなっている。失敗のくり返しで。まるまると精神が太っていく。
- 学問の偉大な歴史は、まちがい、失敗で華やかにいろどられている。真実への旅路で、まちがいは踏み散らしていく小石だ。
- この採点の赤エンピツが、子どもへの絶大な拍手でなくてはならない。
「復刻 学級記録 自主編成 どう生きる科・教科書、なぜ学ぶ科・教科書」(長江中学校のべ120人の中学生と八ッ塚実の合作)より引用
全国学力テストも「テスト」の1つですが…
もへちゃんが勤めていた福岡県では、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)のために、予想問題を配付していました…他県はどうなのでしょうか?
全国学力テストでは、点数が公開され、平均点が低い市町村は、焦ってなんらかの対策をとろうとします。
その結果が、予想問題配布だったり、全国テスト対策の補習だったり、授業時間をつぶしての「練習時間」を作ったり…
テストの練習のために、「教えるべき時間」が削られるなんて現実があります。
これって

まさにパラドックス!
(ホントのようで実はごまかしって理論)
ともへちゃんは思います(>_<)
子どもの実態を把握するために実施するのに、「対策」する?

どう考えても、変です(>_<)
間違ったことがまかり通る学校現場。
八ッ塚さんの「テスト」に対する想いとは、かなりかけ離れてしまっています。
ちなみに、2020年度は、新型コロナウイルス感染症の影響で中止されたようですが、2021年度はいつもより1ヶ月遅い5月に実施するみたいです。
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