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中3生の受験シーズンに贈る文章「泣こう峠」

2020/11/16

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

 もへちゃんの勤めている地域の中学校の中3生は、11月末~12月初旬に三者面談があります。

 三者面談でどこを受験するかを決めます。

 受験勉強になかなかエンジンがかからなかった子たちも、ついには始動しはじめます。

 中3生のこんな時期に、もへちゃんは「泣こう峠」という文章を紹介してきました。

 今回紹介する通信は、その「泣こう峠」を紹介している学級通信「学級記録 No.75 」(1996年12月7日発行)です。

学級記録 No.75「死ぬほどきつい坂」

記録87

 班ノート、遅らせてごめんなさい。

 けどそれは、例の自転車旅行に行ってたからってことで、許してください。

 旅行はいろいろ楽しかったです。

いろいろって何?

 と聞かれると困るけど、いろいろありました。

  • 初っぱなで道、間違えて、郵便配達みたいな人に道、聞いたり
  • 自転車の空気入れの先っちょ、なくして空気入れが役立たずと化したり
  • そして、有田(佐賀県)あたりの死ぬような坂(あれはもう『死ぬような』としか形容する言葉がないです)の中間あたりで途方に暮れたことなど

 自転車は、なんか

自分でそこまで行った!

という感じがして、いいです。

高校入試が無事終わったら、また行こう

とか言っとります。

 中学生のときくらいしか、こんなバカなことはできませんから。

 

 高校入試と言えば、勉学にはげんでおられますでしょうか?

 僕は、ただ塾に行ってるだけなので、これと言ってやってません。

 やらなきゃいかんのでしょうが、家に帰ってくると寝てしまいます。

 でも、学校の授業ではシャキッと頑張っています。

 つーちひょうを上げるため、席も前にしてもらって、発表もバシバシしてます。

 (今日の国語なんか、4回もはっぴょーしたんだじぇ)

 とにかく、あの死ぬほどきつい坂を思い出しながら(何度も言うけど、本当に死ぬほどきつかったゾ)

死んでも目的地(高校)についてやる!

 という気持ちで、頑張りたいです。

 あぁ、書いている間に日付が変わってしまいました。

 明日(今日?)は、「はっぴょう9回」を達成せにゃならんので、寝ます。

 勉強を頑張ろォ!

P.S.

 日焼けが痛いデス。

記録87に添えられていたイラスト

No.76を読む資格(この日は、学級記録を2枚(No.75とNo.76)配りました)

 自分の将来に対して、真剣にとりくんでいる人が増えている。

 そういう人は、次のNo.76を読んでよろしい。

 

 まだエンジンがかかってない人は、No.76を読んだらダメ!

 エンジンがかかった時に読んだ方が、著者の星野富弘さんの思いがわかる。

 

 ◯◯さんが言う「死ぬほどきつい坂」と星野さんの書いている「泣こう峠」

 両方とも将来のことで、努力して努力して努力しぬいている人には共感の湧く話のはず。

学級記録 No.76「泣こう峠」

 遊びに来たおいは、デジタルの腕時計をしていた。

 ずいぶん新式の物だと思っていただけに、小学校3年生の腕に無造作にはめられている時計を見つめながら驚いてしまった。

 そして、自分が初めて時計を持ったのはいつだっったろうかと、思いをめぐらせずにはいられなかった。

 

 私の家の裏山は、“ ナコウの山 ” と呼ばれている。

 小さい頃からみんながそう呼んでいたので、気にもとめなかったのだが、母の話によると “ 泣こうの山 ” なのだそうである。

 

 山村とはいえ、今はどこの家でも燃料はガスと石油であり、木を燃やしている家は本当にわずかである。

 それもせいぜい風呂をわかす程度だ。

 しかしわずか数十年ほど前までは、どこの家の軒下のきしたにもまきや木の枝が屋根にとどくほど積みあげられ、煙の立ちこめるかまどいろりがあった。

 そして、1年分のし木と呼んでいた木の枝などの燃料を山から集めてくるのが、主婦や子供達の冬の大きな仕事だったのである。

 

 けれど人家に一番近い裏山は、ほうきでいたように、枯れ枝など落ちていない山になってしまい、普通、燃し木ひろいといえば、裏山を越えていったんさわに下り、さらに次の山に登って木を集めてくるのが常だった。

 私も小学生の頃から近所の子供達と一緒に、休みの日には1日に2回、燃し木を背負って裏山を越えた。

 冬休みでも家にいたところで、皆、山に行ってしまうから、遊び相手がいなかったし、かえって山に行くほうが楽しかったのである。

 体力がついてくるにしたがって、燃し木の束が大きくなるのが嬉しく、またその束の大きさと一緒に、大人に近づいていけるような気持ちになった。

 

 問題は、燃し木を背負って越えなければならない、、裏山の登りだった。

 話をしたり、調子はずれの歌などを歌っていた子供達も、岩魚いわなのいる沢の石を渡り、登り坂にかかってくると、くいしばった歯の間から白い息をはきはき、うめき声をもらすのがやっとになってしまう。

 だれもが、その峠を越えるか越えられないかのぎりぎりの重さの燃し木の束を作るのである。

 特に最後の10メートルの登りは斜面に対して直角に登る道できつく、道にとびでている岩には、前を登っていく者がたらした汗が、雨足のようにしみていた。

 腕はしびれ、下腹あたりが絞りあげられるような苦しさだった。

 

 “ 泣こうの山 ” というのは、その苦しい登りを、泣こうか死のうか…、と言ったところから来ているのだという。

 父も母も、そのまた母も、皆同じ思いをして昔からその坂をあえぎながら登ったのだろう。

 そして死のうよりも泣こうを選んできたのである。

 そんなに長い距離ではない。

 しかし1日をそのわずかな時間に凝集ぎょうしゅうしたような、つらい登りだった。

 そして歩幅ほはばが次第にせばまり、「もう駄目だめだ!」と、からだのどこからかつぶやきが聞こえてきた頃に、目の前がポッカリと明るくなり、峠にとび出すのである。

 

 峠の南向きの明るい斜面は、すばらしい休み場だった。

 自然の岩や地形が長い間に、椅子いすのような形に変わり、そこに腰掛こしかけて、冬の陽をいっぱいに浴びた自分達の村をはるかに下に見下ろして、足をなげだすのである。

 

 1、2分息をととのえると、私達はそれぞれ楽しみの場所に走って行く。

 みんな自分の時計を見に行くのである。

 それが私が初めて持った時計だった。

 山の斜面を直径50センチくらい枯葉をどかしてきれいに整え、真中に真直まっすぐな棒が立ててある。

 棒が影をおとしているあたりには、短い棒の印が立っていて、それが、昨日ここに着いた時の時間なのである。

 あちこちから、「きのうより早いぞ」とか、「すげえや」とかいう声が聞こえてくる。

 前の日に印を付けておいた所よりも棒の影が少しでも西側ならば、前の日より早くそこに着いたことになる。

 そしてその日の影の所には、明日のために、また短い棒を立てておくのである。

    前の日よりも早く峠を登ることが出来た…、ただそれだけで嬉しかった。

 

 はるか下の方の畑では、豆つぶのように父と母が働いているのが見えることもあった。

 お昼の仕度したくをしているのだろうか、どこの家からも、青いけむりがのぼっているのが見えることもあった。

 

 私の家の裏には、今でも泣こうの山がそびえている。

 見上げながら、時々あの時の苦しみと喜びが一緒に思い出される。

 

 これから私の歩いていく道には、どんな峠があるのだろう。

 泣きながら登らなければならない坂道もあるかもしれない。

 しかしその先にも、あの日時計のある明るい峠があることを、忘れないでいようと思う。

 そしてそこからは、今まで歩いてきた道も、これから歩いていこうとする道も見渡すことが出来るだろう。

風の旅(星野富弘著、立風書房刊)より引用

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

 今回のブログを書きながら、もへちゃんも久々に「泣こう峠」を読みました。

 この年になっても考えさせられます。

 「これから私の歩いて行く道には、どんな峠があるのだろう」と…。

 その峠を登れるかなぁ…

星野富弘さん

 もへちゃんが新任だった年、同じ下宿で、隣の学校の新任だった同期の友だちから星野富弘さんの絵本を教えてもらいました。

星野富弘さん 星野富弘美術館ホームページより引用

 星野さんは元々、中学校の体育の先生でした。

 器械体操の模範演技中の事故で、頸随けいずいを損傷し、首から下が動かなくなります。

 絶望の中で、口に筆をくわえて花の絵を描き始めました。

 もちろん最初は文字の練習からです。

 ミミズの這ったような字だったのが、練習を重ねていくうちに、元々書いていた字と同じような字になっていきました。

 絵も、文字と同様に練習を重ねていくにつれて、人を感動させる絵になっていきました。

 これらについては「愛 深き淵より(筆をくわえて綴った生命の記録)」という本が詳しいです。

 お薦めです(^^)

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