2021/12/09
はじめに

前々回のブログで、人権週間(毎年12/4~12/10)について書いた2008年の学級通信を紹介しました。
その通信を書いた次の日から、もへちゃんは奈良で開催された全国人権・「同和」教育研究大会に向かいました。
今回は、2008年度全「同」教大会・奈良大会前日に行った水平社博物館で学んだことを書いた「おみやげ通信」A4版の第2面を紹介します。
水平社発祥の地を訪ねて
全同教大会前日、CK地区4市1町「同」研の事務局の方が計画してくれた、奈良県御所市柏原のフィールドワークに行ってきました。
そこは水平社発祥の地と言われています。
まずは「水平社博物館」をじっくり見て回りました。

水平社博物館 館内フィールドワーク
常設展示室には11のコーナーがありました。
②雲間の曙光…対等・平等を求めて
掖上村 柏原では、厳しい差別に対し、その撤廃に向けての闘争が水平社設立以前から取り組まれていました。
例えば、村役場が被差別部落の子どものみを分離教育する「部落学校」のため、掖上村に2つの小学校を建ててしまいました。

檀家総代の坂本清三郎(阪本清一郎の父)らが中心となって役場へ乗り込み、また村長の屋敷を取り囲んで糾弾しました。
翌年には11ヶ月間の同盟休校を打ち、最後に竹槍で対峙したのです。
その結果、村長と盟約を結び、4年生のみ本校通学が許可となったのです。
その後も、一村二校の体制が続きますが、実質的な一村一校をめざして闘争は継続します。
このような歴史があったからこそ後の、いわゆる柏原の三青年(阪本清一郎、西光万吉…本名 清原一隆、駒井喜作)らが柏原の地から誕生していくのです。
④若き力が集まるとき… 全国水平社 創立前夜
燕会結成

差別の中で一生を終わりたくない…
若者たちの心の叫びはしずくとなり、やがて1つの大きな流れとなっていきました。
1920年5月、西光万吉、阪本清一郎らが「燕会」を結成していました。
「燕会」は部落内の生活改善や貸し付けなどの活動を通して、部落の民主化運動に取り組もうとする団体でした。
水平社結成
そのような中、メンバーは

部落差別をなくすには、部落自身が立ちあがらなくてはならない。
と主張した佐野学の「特殊部落解放論」という論文に大きな影響を受けました。
そこで西光や阪本らは、自主的な解放運動を全国的に組織するため「水平社」を組織することにしました。
絶対的な平等をあらわす「水平」は阪本清一郎が名付けたといわれています。
水平社創立趣意書「よき日のために」
彼らは、自主的な解放運動と団結を訴えた水平社創立の趣意書のパンフレット「よき日のために」を作成して全国に配布して、水平社創立を強く訴えていきました。
「よき日のために」の最初は
「全国内の差別されているものよ。寄ってこい。起きてみろ。夜明けだ。」
で始まっており、ロシアの作家・ゴーリキの「どん底」から引用された
「人間はいたわるものではなく、尊敬すべきものだ」
という言葉もあり、彼らの思想をよくあらわしています。
⑤よき日よ君の手を…全国水平社の創立と広がり
1922年3月3日、京都市岡崎公会堂で自らの力で差別をなくそうとする歴史的な「全国水平社創立大会」の日がやってきました。
会場の中は紅白の幕がはられ、壇上には
- 「解放・団結・自由」
- 「三百万人の絶対解放」
- 「特殊部落民よ団結せよ」
などの垂れ幕がかかげられていました。
全国から集まった人々は「同じ差別に苦しんでいる兄弟がこんなにも大勢いるんだ!」との喜びと通い合う共感で満ちあふれていました。
午後1時、南梅吉によって開会が告げられると、おびただしい拍手がおこりました。
会が進み、駒井喜作によって「水平社宣言」の朗読が始まると、会場の人々は、はじめは声なく顔をふせ聞き入っていましたが、やがてあちこちですすり泣きが聞こえました。
言いしれぬ感動と、これまでの自分がうけた差別を思い出したのです。
そして
「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」
と宣言を読み終わっても、すすり泣きが続いていました。
駒井喜作も演壇を去るのを忘れ、しばらく呆然としていました。
しかし、やがて会場はわれんばかりの拍手と歓声に変わっていきました。
日本で最初の人権宣言の発表の瞬間でした。
この水平社創立のニュース(新聞記事)は、日本では小さく扱われましたが、民主主義が進んでいたアメリカ、ソ連(ロシア)、イギリス、フランスでは

日本で初めての、本当の民衆による解放運動がおこった。
とトップニュースで伝えられました。
このことをIK先生に話したところ「これやろ」と、その日のアメリカの新聞の記事のコピーを見せてくれました。

IKちゃん、恐るべし(笑)!
さて、話を創立大会に戻しましょう。
大会の最後に、西光や阪本と同じ奈良県柏原出身で16歳山田孝野次郎少年が登場しました。
山田少年は、学校で先生や生徒から受けた差別を、せつせつと訴えました。
話しているうちに胸がいっぱいになって涙があふれ、中断してしまい、会場の中からもすすり泣きが聞こえました。
しかし山田少年はきっと顔をあげて

今、私たちは泣いている時ではありません。
大人も子どももいっせいに立って、悲しみの原因をうち破ろうではありませんか。
光り輝く新しい世の中にしていきましょう!
と結ぶと、会場は割れんばかりの拍手と歓声で埋め尽くされたそうです。
⑦大空から日輪を…全国水平社を支えた人びと

後列、左から2人目は、筑紫郡の西田ハルさんと説明文にありました。
後からNGさんに「筑紫郡って◯◯◯ですか?」と尋ねたら、「福岡市の方ばい」と言われ、ちょっと残念!
おわりに

もへちゃんは、1922年3月3日に読み上げられた水平社宣言が大好きです。

日本で最初の人権宣言だ!
とさえ思っています。
日本初の人権宣言「水平社宣言」
全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
長い間虐められて來た兄弟よ、
過去半世紀間に種々なる方法と、
多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、
何等の有難い効果を齎らさなかつた事實は、
夫等のすべてが吾々によって、
又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。
そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、
かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、
此際()吾等()の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ、
吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であつた。
陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。
ケモノの皮剝ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、
ケモノの心臓を裂く代價として、暖い人間の心臟を引裂かれ、
そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、
なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。
そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。
犠牲者が、その烙印を投げ返す時が來たのだ。
殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
吾々が穢多である事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。
そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、
人間を勦はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、
心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
大正十一年三月— 1922年3月3日、京都市・岡崎公会堂にて宣言
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