2022/03/14
はじめに

今日(2022/03/14)は、3月第3週。
もへちゃんが勤務していた地域の中学校では、公立高校入試も終わり、卒業式も終わってしまいました。
日本全国の中学校も同様だと思います。
卒業式ネタを書くにはタイミングを逸したし、それに卒業ネタはけっこう書いているので、今回のブログでは、卒業ネタの通信を紹介するのはやめておきますm(_ _)m
さて、前回の記事「1922年3月3日 水平社宣言に込められた思い」では

まだ「水平社宣言」の素晴らしさを伝え切れてないな~(>_<)
と感じているので、今回のブログでは「水平社宣言」の授業をする先生たちに配った資料を紹介します。
水平社宣言解説(教師用資料)
全国に散在する、わが特殊部落民よ団結せよ

「特殊部落民」という言葉は、差別する側が使う差別表現です。
この言葉が使われたのは、「水平社」が被差別落出身者自身の組織であることを明確にするため、さらに差別と屈辱を跳ね返したいという思いからなのです。
また、この書き出しから呼びかけている対象は、被差別部落出身者ということがわかります。
しかし…
宣言を読み進めていくと、呼びかける対象が変わっていくことに気づくと思います。
過去半世紀間に種々なる方法と多くの人々によってなされた我らのための運動が、何らのありがたい効果をもたらさなかった事実は、それらのすべてが吾々によって、また、他の人々によってつねに人間を冒涜されている罰であったのだ。

1891年太政官布告「解放令」発布以来50年にわたって、歴代政府や地方自治、有力者、宗教者、有志など多くの人々によって、私たちを「保護する」とか、「救済する」とかの様々な対策が取られましたが、それらは少しもよい結果をもたらしませんでした。
うまくいかなかったのは、その様々な方法や運動が
- 「いたわり」(弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する)から生まれたものであること
- 「人間を尊敬する」いうことを理解・認識しきらず、そのことをないがしろにしてきたこと
だったからであって、その罰として、よい効果があらわれなかったのです。
そして、これらの人間をいたわるかごとき運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを想えば

一段高いところから、「憐れみをかけてやる」、「救ってやる」という奢り、高ぶりは人間を見下してます。
辱めています。
さらに、このような運動により、被差別部落出身者の一部に「救ってください」「恵んでください」というような態度をとらせることになりました。
このような態度は、自らの人間の尊さを、心なき他人にゆずり渡すことです。
自らの人間の誇りを軽んじて、投げ捨てることなのです。
この際、我らの中より人間を尊敬することによって自ら解放せんとするものの集団運動を起こせるは、むしろ必然である。

今、私たち自身から、人間を尊敬することによって、自らの自由と平等をもとめる集団運動を起こすことは当然なのです
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり実行者であった。

私たちの祖先は、本当に心の底から、あたかものどの渇いた人が、ひたすら水を求めるように「自由、平等」を懸命に求め続けてきました。
「自由・平等」を失っていたからこそ、その価値を最も知っていたのです。
被差別者として存在してきたこと自体が「自由、平等の実行者であった」のです。
陋劣なる階級政策の犠牲者であり、

「陋劣」とは「いやしく劣っている、心が狭くて卑しいこと」です。
現在まで存在する「階級政策」とは陋劣なのです。
そして私たちの祖先は、その犠牲者だったのです。
男らしき産業的殉教者であったのだ。

世間の人々が進んでやろうとしようなとりわけつらい仕事や厳しい仕事をやる役割を担わされてきました。
苦労が多く、報われることの少ない仕事にもめげず、屈せず、さまざまな犠牲をはらいながらも、困難に耐え、知恵をめぐらせ、黙々とこの社会を底辺より支え、したたかに生き抜いてきたのです。
また、生産者・生活者ならではの楽しみや喜びも見出し、手作りのぬくもりある文化、芸能、芸術も生み出し、創り出しました。
さて、水平社宣言では「兄弟」「男らしき」という表現があります。
この時代(1922年・大正11年)の被差別部落出身の女性は、ともに水平運動をたたかう主体と認識されてなかったとも読めます。
しかし、創立大会で演説した岡部よし子さんや、各地の水平社大会で演説した多数の女性が存在しました。
ケモノの皮はぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を切り裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇りうる人間の血は涸れずにあった。

被差別部落に住む人々は、世間の人々が「すすんでやらない仕事」を担わされてきました。
その中の1つに、動物の解体、処理、加工、皮革業などの仕事がありました。
世間の人々は、「生き物を殺し、皮をはぐ、血を見る」などと言って、さげすんだり、ののしったりして過酷な差別を押しつけてきました。
「ケモノの心臓を裂く代価」として、高度な熟練を要するその技にふさわしい値打ちのある正当な報酬が与えられませんでした。
それどころか、その逆に暖かい人間の心を、ひどい仕打ちの差別と迫害で「切り裂」かれました。
「呪われた夜の悪い夢」を見ているかのような、あってはならない差別の歴史の中にあって、しかもなお、誇り高く生き抜こうとする人間の温かい血は涸れることもなく、脈々と今に受け継がれてきたのです。
2022年3月10日に、NHK Eテレで放送されたバリバラ 水平社宣言100年 (2)「人の世に熱あれ 人間に光あれ」では、1971年大阪で起こった事件(強盗事件の犯人として、食肉業界への差別から、精肉店で働く被差別部落出身の青年を逮捕。後に部落外の青年が犯人とわかる)を取り上げ、この文を解説してました。
とてもわかりやすく、心揺さぶる内容でした。
そうだ、
そして吾々はこの血を受けて人間が神にかわろうとする時代にあうたのだ。

そうだ!
私たちは、人間として誇り高く生き抜いた祖先の血を受け継いで、「人間が神にかわろうとする時代」に、今、まさしく出会っているのです。
「人間が神にかわろうとする時代」とは、人以上の存在として「神」のごとくにふるまってきたものたちにかわって、まさに「人間こそが、この世の中の中心であるという時代」にとってかわらなければならないという意味です。
犠牲者がその烙印を投げ返すときが来たのだ。
殉教者がその荊冠を祝福されるときが来たのだ。

一方的に犠牲を強いられた者が、その受難者、犠牲者であり続けることを、きっぱりと拒否、返上する時が来たのです。
「差別」という烙印(刑罰として罪人の額などに当ててしるしを付けた焼き印、ぬぐい去れない汚名の意味)をはね返すときがきたのです。
「差別」という荊冠(いばらの冠、イエス・キリストが十字架上でかぶせられた冠、受難のたとえ)をかぶせられ、耐え続けたことで、世の中を支え続けていた者の真価が世に知られ、その労がねぎらわれ、たたえられるときが来たのです。
差別者が支配してきた時代は終わり、差別されてきたからこそ「人間は尊敬される」ものであり、「自由と平等」がすべての人間に公平に与えられるべきものであるかを知っている被差別者が唱える論理が、社会の基盤となる…そんな時代が求められていることを表現しています。
ゆえに、この文章は、被差別部落出身者というより、すべてのマイノリティに対してのメッセージとも言えます。
吾々がエタであることを誇りうる時が来たのだ。

「エタ」は差別者が使う差別表現です。
あえて「エタ」を使い、「エタ」と言われ苦しみ続けた屈辱をはねかえす強い気持ちを表現しています。
祖先が「エタ」の名において生き続け、作り上げ、支えつづけてきた歴史
屈辱と栄光の歴史の真実を「誇りうる」時代が来たのだ!と価値観の転換を行ったのです。
吾々は、かならず、卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ。

卑屈…他人にへつらって自らを卑しめるいじけたさまであること
怯懦…臆病で意志の弱いこと
冒涜…神聖、尊厳なものをおかしけがすこと
差別を受けたときに、自分が「エタ」の子孫に生まれたことを恥じたり、耳を覆ってその場から逃げたりすること…それは祖先を辱めることであり、人間を「誇りうる」生き方ではありません!
そして
人の世の冷たさが、どんなに冷たいか
人間をいたわることが何であるか
をよくしっている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。

差別の冷たさというものは、身も切られんばかりの冷たさであり、血も凍らんばかりの冷たさでした。
また、人をだますような真実みのない「偽りのいたわり」を体験させられてきた私たちだからこそ、人間にとっての「本当のいたわり」を知っているのです。
だからこそ私たちは、心から、人生の熱と光を願い求めるのです。
水平社宣言でこの後に出てくる「人生の熱と光」。
その反対が「人の世の冷たさ」なのです。
水平社宣言の中段あたりに書かれた「人間を尊敬すること」の反対が「人間をいたわること」なのです。
水平社はかくして生まれた。

水平社はこのような願いをこめて、生まれました。
- 「エタ」であることを否定しそこから逃げるのではなく、誇りをもって差別と向き合う決意
- 人間らしい生き方を貫くこと、人間を尊敬することを「運動」の出発点に置く
これら「水平社」の意義と目的を明らかにすることがこの「宣言」の趣旨なのです。
人の世に熱あれ
人間に光あれ

もへちゃんが一番ビビッとくる文章がこれです。
ここで書かれている「熱」とは、「人のぬくもり」、「人間の愛」、「真実」、「差別のない状態」を指しています。
「光」とは「希望」を指しています。
冷たい差別の壁を打ち破り、切り開いて輝かしい光が、
- すべての人々の行く手を照らし
- すべての人々の上に満ちあふれる
そんな完全解放のよき日を願っているのです。
さて、水平社宣言の冒頭は「わが特殊部落民よ」でした。
しかし、この最後の文は「特殊部落民」に「光あれ」でなく、「人」に「光あれ」としていることに注目してください。
この水平社宣言は、被差別部落出身の人だけでなく、すべての人々が平等に、差別されず、尊敬される世の中を願っているのです。
「日本最初の人権宣言」と言われる所以です。
おわりに

バリバラ 水平社宣言100年 (2)「人の世に熱あれ 人間に光あれ」
2022年3月10日にNHK Eテレで放送された
バリバラ 水平社宣言100年 (2)「人の世に熱あれ 人間に光あれ」
は、とてもわかりやすく、心揺さぶる内容でした。
真っ正面から部落差別に向き合い、被差別の側にある人たちが誇り高く自らの体験を語っていました。
しかも「かきくけこ」
- か…かたい
- き…厳しい
- く…苦しいけ…
- 権威的
- こ…こわい
な内容ではなく、「あいうえお」
- あ…明るい
- い…(ちょうど)いい加減
- う…嬉しい
- え…笑顔
- お…おもしろい
な内容でした(^^)
人間に光あれ…にんげん?じんかん?
ただ、「バリバラ」では、水平社宣言の最後の文
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」
を

にんげんに光あれ
と読んでました。

おかしいなぁ(>_<)
もへちゃんは「人間に光あれ」を「じんかんに光あれ」と学んだのです。
そして、人権学習では子どもたちに対して
「じんかんに光あれ」
と教えてきたんだけどなぁ…
じんかんに光あれ
もへちゃんが学んだ「じんかん」を解説しておきます。
人の心というのはどこにあるのでしょうか?
例えば「差別する心」とか「愛する心」ってどこにあるのでしょうか?
心臓?
脳みそ?
いいえ、下のイラストを見てもらうとわかってもらえると思いますが…

人の心というのは、人と人の間にあるものなんです。
水平社宣言の「人間に光あれ」とは、「人と人との間に光あれ」、すなわち人と人の間に光を放ち、人の心の闇を払ってしまおうってことなのです。
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