2022/01/17
はじめに

1995年1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源とする兵庫県南部地震が発生しました。
なので、もへちゃんは、多くの方の生命が失われた1月17日を「生命を考える節目の日」と思っています。
24年過ぎた2019年1月17日にも、地震のことを知らない子どもたちに対して「生命」についての学年通信「◯◯◯中学校3学年だよりミニ No.143」を発行しました。
どうぞご覧下さいm(_ _)m
1月17日
24年前の今日、1月17日の午前5時46分、関西圏を大地震が襲いました。
阪神・淡路大震災です。

私はこのときすでに学校の先生をしていて、生徒会指導担当でした。
新聞やテレビで大地震のことを知り、当時の生徒会長のSTさんが

緊急募金をしたい!
と言いだしたのが1月18日。
翌日の1月19日には臨時の生徒会だよりを発行し、1月19日~28日の10日間、募金活動にとりくみました。
当時の中学生は、現在の保護者の年代です。
おうちの方たちの世代はすごいんです(^o^)
神戸新聞の記事から
さて、神戸新聞のホームページで、大震災の記事を見つけたので紹介します。
8767日。
あの大地の揺れから、私たちが歩んできた日数です。
あなたは1日1日を、どのように過ごしてきましたか。
阪神・淡路大震災で犠牲になった兵庫県明石市の市民は26人。
このうちの一人、大川美幸さんは当時20歳。
ホテルオークラ神戸のレストランに派遣で働いていました。
1995年の元日は、「1人暮らしがしたい」と美幸さんが19歳の春に家を出てから初めて迎えた正月でした。
「おせち料理するから一緒に食べよう」。
母親の美佐代さん(70)が声をかけ、久しぶりに明石の自宅で一緒に過ごしました。
カメラを持っていた美佐代さんは、「せっかくだから」と何枚も写真を撮りました。
自宅でも、初詣に行った柿本神社でも。
「笑って」とカメラを向けると美幸さんは「恥ずかしいやんか」と照れました。
今思えば、たまたま撮った写真。
遺影になるなんて考えもしませんでした。
美幸さんは17日、遊びに行っていた芦屋市内の友人宅で亡くなりました。
知らせが届いたのは地震発生から数日後。
直後から美佐代さんは美幸さんだけでなく、神戸で暮らす親戚にも電話をかけ続けましたが、誰ともつながりません。
不安はありましたが、美幸さんはポケベルを持たずにどこかに避難しているだろうと思っていました。
「まさか」
家を飛び出しました。
家族3人で車を走らせ、遺体が安置されている場所まで一晩ほどかかりました。
美佐代さんの頭の中は真っ白です。
遺体は芦屋市内の小学校にあると聞いていたのですが、到着した時には武庫川沿いの寺に移されていました。
雨の降る中、やっとたどり着くと、すでに、たくさんのひつぎが並んでいました。
美幸さんも、同じようにひつぎの中に寝かされていました。
美佐代さんは崩れ落ち、動けなくなりました。
家族によると、気絶していたそうです。
前後の記憶はあいまいです。
美幸さんの顔が安らかできれいだったことは覚えているそうです。
死因は圧死でした。
手続きに追われる日々が続きました。
片付けのため、美幸さんが1人暮らしをしていた神戸市兵庫区のマンションを訪ねました。
そこはほとんど壊れていませんでした。
「ここにいたら、生きていたはずなのに」。
やり場のない怒りと後悔がこみ上げました。
芦屋市へは24年がたつ今も、足を運ぶことができません。
震災後、美佐代さんはふさぎ込み、自宅にこもりがちになりました。
美幸さんのことばかり考えてしまいます。
「クッキーを焼くから」と突然電子レンジを買って来たこと。
小さい頃「ちゃぷちゃぷ」と歌いながら一緒にお風呂に入ったこと。
遺骨を抱え、何度も泣きました。
「肩の荷が下りた」と感じられたのは、震災から3年ほどたって納骨を済ませた時でした。
墓を建てられる寺がようやく見つかりました。
「やっと自然にかえしてあげられる」。
少しほっとしたのを覚えているそうです。
あの日、なぜ芦屋に行ったのかは今も分かりません。
けれど、美幸さんの死後、分かったことがあります。
友達の多さです。
幼い頃は内向的でおとなしかったのに、成長とともに社交的な性格に変わりました。
気が利く一面もありました。
思い出すのは、最後になった元日の初詣。
カメラのストロボの電池が切れそうなのを察して、いつのまにかどこかで電池を買い、何も言わずにサッと渡してくれたのです。
友人は「大川が使っていた物だから」と、ホテルの制服や、財布を持ってきてくれました。
今でも「お母さん、どないしてます?」と顔を見せに来てくれます。
去年の1月17日も、誰かが墓を参ってくれたみたいでした。
かすみ草の花がぎゅうぎゅうに束になって供えられ、友達と楽しそうにしている写真のカラー印刷がジップロックに入って、飾ってありました。
ペットボトルのお茶も置いてありました。
ふたをちょっとだけ緩めた状態で。
たくさんの人が来てくれるから、美佐代さんは17日、なるべく自宅にいるようにしています。
「誰かが訪ねてきたら、ちゃんとお礼しといてね」
美幸さんから言われているような気がするからです。
きょうで震災から8767日です。
普段、誰にも話さない記憶。
14年前に取材を受けた時は、途中で涙があふれ、洗面所でおえつしてしまったそうです。
「美幸さん、きょうは大丈夫よね」。
今回の取材の日の朝、美佐代さんは仏壇の前で泣いたそうです。
だからかどうか、この日、涙はありませんでした。
「最近は、少しは笑って生きてもいいのかなと思えるようになったんです」。
美佐代さんはほほ笑んでくれました。
一つだけ、付け加えます。
美佐代さんは美幸さんの服を今も大切に保管しています。
季節が変わると、お気に入りの服をハンガーにかけて楽しみます。
冬、春、夏、秋、冬、春、夏、秋、冬、そして春。
これからも季節は巡ります。
(勝浦美香)
神戸新聞NEXT「阪神・淡路から24年 母と亡き娘の8767日 明石」より引用
「人ごと」ではなく、「我がこと」へ
大震災で我が子を失った母の想いを「人ごと」ではなく「我がこと」に感じられる感性が、あなたにあると嬉しいです。
えっ?私ですか?

私は、この記事を読んで泣いてしまいました。
おわりに

伝説の生徒会
1995年1月17日当時、もへちゃんは先生をしていて、生徒会担当でした。
この年の生徒会執行部の子たちは
- 平和劇をスタートさせたり
- 今なお伝えられている体育会スローガン「CK魂」を創り上げたり
- 人権・平和委員会の元になった「人権クラブ」を発足させたり
- …
と伝説に残る子たちでした。
そんな子たちでしたから、1月17日の大地震に対しても、すぐに行動を移しました。
次回は、その子たちが震災の翌々日(1月19日)に発行した生徒会だよりを紹介したいと思います。

でも、どこにしまいこんだかなぁ…
探さなくっちゃ(>_<)
季節が変わると、お気に入りの服をハンガーにかけて楽しみます
通信内に「 季節が変わると、お気に入りの服をハンガーにかけて楽しみます 」とありました。
震災で亡くなった美幸さんのお母さん・美佐代さんが震災から8767日(24年)過ぎても行っていたことです。
うちのカミさんも、亡くした娘が大事にしていたトルソーに、娘の服をアレンジして着せています。
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