2020/12/04
はじめに

昨年の今日、2019年12月4日、ペシャワール会 現地代表の中村 哲医師が亡くなりました。
そこで『学び合い』シリーズはお休みして、中村哲さんを偲ぼうと思います。
もへちゃんは以前、人権週間で催された講演でお話を聞いたことがありました。
難民の医療活動だけでなく、用水路の建設を自ら重機に乗って行われていました。
用水路で水を引けば、農地がよみがえり、難民が戻ってきて、生活ができるからです。
もへちゃんの憧れる、まさに「行動」の人でした。
中村哲さんのことを通信に書いたことはなかったのですが、中村さんの言動と重なる「本当の勇気」について書いた「学級記録 No.66」(2006年2月15日発行)を紹介します。
本当の勇気
CAP(Child Assault Prevention=子どもへの暴力防止プログラム)のワークショップを2日間、のべ4時間受けた。
そのうちの3時間を後ろから見せてもらった。
「男らしさとは?」の問いに「勇気ある人」という答えが出た時、僕は「青い目の人形」のことを思い出した。
青い目の人形
1927(昭和2)年4月に、当時悪化しつつあるアメリカと日本の関係を、なんとかいい方向に向けられないかと考えた人々が、いろんな人と協力して、約13000体の人形を日本全国の小学校や幼稚園に贈った。

その後、1941(昭和16)年12月10日、日本はイギリス、アメリカと戦争を始めた。
いくつもの国を敵に回し、戦争は拡がる一方だった。
1943(昭和18)年には、新聞に
青い目をした人形、憎い敵だ許さんぞ
という記事が出た。
文部省の役人も「そうすることは、当たり前だろう」という談話を発表した。
人形たちは、竹やりで突き刺された。
あるものは、火で焼かれた。
あるものは、石をぶつけられた。
あるものは、水に沈められた。
贈られた時の歓迎ぶりも、その後の子どもたちが人形をとてもとても大切にしてきたことも、国の命令の前では無力だった。
けれども、「人形には何にも罪はない。これでは人形がかわいそうだ」と、見つかったらひどく罰せられることを承知の上で、隠した人がいたのだ。
学校に見回りに来た兵隊から、隠し場所付近を探され、生きた心地がしなかったが、なんとか切り抜けた人がいたのだ。
ただの人形まで、目の敵として、国民を戦争へ駆り立てようとした、当時の狂った世の中。
人形を隠すということは、そんな世の中と対決することでもあった。
静かな、しかし命をもかけたこの行為に、僕は「勇気」という言葉を感じる。
約13000体贈られた人形で、現在(2006年の時点)残っているのは286体のみ。
福岡県では3体だ。
ケンカに強いとか、大声で相手をビビらせるとか、高いところに登れるとか…そういうのを「勇気」とはいわない。
あえていうなら「蛮勇」だ。
勇気を出して、人形を守った人の多くは女性だったという。
おわりに

自分には力がないから、「行動する」なんてできないと、子どもたちも、そしてもへちゃんも思いがちです。
そんな自分を戒める意味で2006年「青い人形」の話を、通信に書きました。
そして、今回、このブログに書くことで、中村 哲さんのような、行動できる本当の勇気を持てる気がして…
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