被爆者との交流・語る会…2008年原水禁世界大会長崎大会にて

2020/08/03

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

 8月になりました。

 もへちゃんにとっての8月は、反戦平和の8月なのです。

 8月6日の出校日に、希望者を募って平和劇を作り、全校生徒に見てもらうというとりくみを長いことやってました。

 なので、この時期は朝6時には学校に着いてました。

 平和劇の練習を午前7時~8時半としていたからです。

 この時間帯で練習すると涼しくて、練習がダレることもないし、熱中症の心配もないのです。

 また中3生が多数応募してくるのですが、塾と被ることもないわけです。

 えっ、希望者がどれくらい集まるかって?

 このとりくみを始めた年は生徒会役員だけでやりました。

 2年目から「平和集会実行委員会」を募り始めました。

 2年目の希望者は確か12人だったかなぁ…一番人数が少ない年でした。

 その後、着実に希望者は増えていき、もへちゃんが関わった最後の年は90人ほど集まりました!

 今回は、ある学校で平和劇にとりくみはじめた2008年に、もへちゃん自身が行ってきた原水禁世界大会長崎大会のことを書いた「おみやげ通信 第1号1~2面」(2008年8月21日発行)を紹介します。

おみやげ通信「第63回長崎原爆の日」

 今年も8月8~9日、長崎に行ってきました。

 被爆63周年長崎原爆犠牲者慰霊祈念式典や、その前日に市内のいろんな所である講演会・分科会・フィールドワークに参加し学んでくるためです。

 8月9日に長崎に行って、反戦平和の学習をするのは4度目ですが、今年も新たな発見がありました。

 昨年は「フィールドワーク・見て聞いて学ぼう“ナガサキ”(入門編)」、一昨年は「平和と核軍縮」という分科会に参加しましたが、ふと被爆者の方の話が聞けるうちに聞いとかないかんなぁと思い、今年は「被爆者との交流ー語る会」という分科会に参加しました。

会場となった長崎県被爆者手帳友の会の平和祈念会館

早崎猪之助さんのあの日

早崎猪之助さん

九死に一生を得た我々は、あの日を昨日のことのように思います。

11時2分

 8月9日はどんより曇っていました。

 8時30分に空襲警報が鳴りましたが、しばらくして解除になりました。

 職場(三菱兵器大橋工場の主機実験室…魚雷を作っていた日本一の工場、その研究室)に戻り、上司から「歯車のピンの先を削ってくれ」と言われたので、主機実験室から15mほど離れた技術ビルにある、1mほどの柱の横にあったグラインダーを動かそうとしたとき、チカチカッと光って身体が宙に浮きました。

 そして8mほど先にあった扉をはずしていた大型冷蔵庫の奥に吹き飛ばされました。

 運良く頭を打たなかったので意識ははっきりしていたのですが、「あ、あ、あ」と声を出してみても聞こえないし、真っ暗闇で何も見えなかったので、目と耳をやられたと思っていました。

 5分ほどするとうっすらと目が見えるようになってきました。

 地面の方から明るく黄色くなるとです。

 煙は上がる、ゴミは落ちるでしょ。そして黄色と黒が混じって虎の模様のように見えました。

 地面から1mほどの高さまで明るくなってからパイプやら鉄筋やらが散乱してるところからビルの外に出ると、中にあった何トンもある工作機械が外に飛ばされていました。

 他にもあおむけの人のようなものも見えました。

 門まで行くといつも立っている守衛さんどころか守衛室も吹き飛ばされ影も形もなく、工場はがれきの山になっていました。

音無踏切の惨状

 門から出ても誰も動く人影もなく、音無踏切まで来て初めて生きてる人を見ました。

 黒い服を着ていると思っていたら、それは皮膚が焼けただれて垂れ下がり、黒く汚れていたことに近くまで来て気づきました。

 「おいさん、どうしてそんなケガした?」と聞きましたが、答えずにのっそりのっそり歩いていきました。

 さらに進むと屋根が40㎝ほど浮き上がった気がして驚いていたら、また動いたのでのぞき込むと大きな牛が下敷きになっていました。

 34~35才くらいの腰巻きだけのおばちゃんが「あんた、あんた、煙の所にじいちゃんと婆ちゃんが…あんた」と半狂乱で話しかけてきましたが、14才で身体も小さい自分は何にもできないし、安全なところに行くことしか考えてなかったので何もできませんでした。

三菱兵器工場

 三菱兵器の西郷寮では、夜勤から帰ってきて寝ていた者が寮の下敷きになり、それに火がついて10mほどの炎を上げていました。

 「助けてくれ」と言う声は聞こえるけれど、自分以外歩いている人は誰もおらず、何もできず半時間ほどそこに立って耳を押さえてふるえていました。

 恐る恐る線路の方に行くと、鉄道沿線は黒こげの人や大けがの人が無数にいました。

 畑の中にも何人もいて「水、水」と言っていました。

 ひどいやけどとかで水をほしがる人に水を飲ませたら死ぬと教わっていましたが「水をやらんでもこの人たちは全身やけどだから死ぬぞ」と思ったので、水を入れるものを探したのですが何もない。

 ふと見ると布団が燃えていたので、そこから綿をひとかたまり取ってきてたんぼの水を含ませて飲ませました。

 「はぁ~」と言うけれど、誰ひとり「ありがとう」と言った人はいませんでした。

 4回ほどそんなことを繰り返して、疲れて座り込んでいたら上司の永野さんが血だらけで通りました。

 「これはいったいどうしたんですか?地球が爆発したんですか?」と聞くと「広島に落とされた新型爆弾が長崎に落とされた。君の家はどこか?」と言われました。

 「島原です」と答えると「島原なら家族は生きてるだろう。長崎の人間は家族は誰も生きていない。君は帰れ。さぁ、さぁ。」と追い立てるように言われました。

 それで帰る気になり、その日の午後8時半ごろに救援列車に乗れ、次の日の明け方近くに家に帰り着きました。

 母は「身体一つあれば何よりの親孝行」と喜んでくれました。

 それから4~5日寝込んでいるうちに終戦になりました。

 そのときは「戦争に勝ったも負けたもない。終わってよかった」と思いました。

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

NHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場~最後の1か月で何が~」

 昨日(2020年8月2日)の午後9時から、NHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場~最後の1か月で何が~」があってました。

  • 黒糖を奪われまいとした子どもを射殺した日本兵のこと
  • 首里の司令部が壊滅した時点で降伏ではなく「本土決戦」の時間稼ぎのために敗走することを主張した八原博通高級参謀(高級参謀で唯一生き残った)が、笑いながら南部撤退を振り返った肉声(録音テープ)
  • ガマ内で九死に一生を得た女性の、「敵はアメリカじゃない、友軍(日本軍)が敵になってしまった」という肉声(録音テープ)

が印象に残りました。

 録画してなかったので、再放送で録画しようと思います。

  • 再放送…2020年8月5日(水)午前0:30~午前1:20(50分)〔8月4日(火)深夜〕

 この時期の反戦平和のドキュメンタリーは、すぐれた作品が多いように思います。

NNNドキュメント「煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」

 昨夜というか今日の早朝(2020年)8月3日0:55~1:25に

NNNドキュメント「煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」

という番組があってました。

 録画したのですが、まだ見てません。

母と暮らせば

 2020年8月3日(月) 午後1:00~午後3:11にNHK BSプレミアムで映画「母と暮らせば」がありました。

 これもちゃんと録画しました。

 まだ見てませんm(_ _)m

 ただ、この映画の原作である「父と暮らせば」の舞台なら見たことがあります。

 とても感動したので、嵐の二宮和也さんや吉永小百合さんが演ずる「母と暮らせば」にもすごく期待しています。

NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

 2020年8月6日(木) 午後10:00~11:00にある

NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

にはすごく期待しています。

映画「この世界の片隅に」

 2020年8月9日(日)午後 3時50分 ~ 5時56分には、アニメ映画「この世界の片隅に」があります。

 一度見たこともあるし、録画もしてますが、もう一度見直そうと思っています。

この時期のドキュメンタリーや映画、そして…

 こんなふうに、8月前半のこの時期には、すぐれた反戦平和のドキュメンタリーや映画、ドラマが多いと思います。

CM「子どもたちに反戦平和をどう伝える?シリーズ」

 この土日(8/1~2)で

子どもたちに反戦平和をどう伝える?②朗読劇「島唄」シナリオ

をKindle出版しました。

 戦前から現在までの沖縄について書いた朗読劇のシナリオです。

 NHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場~最後の1か月で何が~」と併せて読むと、沖縄の昔と今がよくわかると思います。

 ちなみに「子どもたちに反戦平和をどう伝える?」となっているのは「①」があるからです。

 これです ↓

  • 朗読劇「1945」シナリオ
  • 朗読劇「島唄」シナリオ

ともによろしくお願いしますm(_ _)m

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