被爆者の方に質問…2008年原水禁世界大会長崎大会

2020/08/04

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

8月前半は、反戦平和のドキュメンタリーが熱いっ!

 前回、ブログを書いた後、改めてテレビのドキュメンタリーをチェック&予約しました。

 録画予約したのは

  • 8/4(23:40~23:45) NHK総合 私と沖縄「MAX MINA」
  • 8/5(0:30~1:20) NHK総合 NHKスペシャル「沖縄 “出口なき” 戦場~最後の1か月で何が~」
  • 8/5(2:10~2:40) TNC(テレビ西日本) FNS九州8局共同制作 ドキュメント九州「青い正義感」
  • 8/6(0:50~1:40) NHK総合 BS1スペシャル「1945ひろしまタイムライン もし75年前にSNSがあったら」
  • 8/6(22:00~23:00) NHK総合 NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」
  • 8/8 (23:00~24:00)NHK Eテレ ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」
  • 8/9(13:45~13:50) NHK総合 私と沖縄「りゅうちぇる」
  • 8/9(15:50~17:56) NHK総合 映画 この世界の片隅に
  • 8/9(18:05~18:45) NHK総合 長崎原爆の日「被爆75年 いまこそ伝えたい」
  • 8/10(0:55~1:25) FBS(福岡放送) NNNドキュメント「8.9長崎が壊された日~下平作江 75年の闘い~」

 いっぱいある~

 楽しみです(^^)

 8月前半は、テレビのドキュメンタリーに負けず、ブログでも反戦平和の記事を書きたいと思っています。

 今回は、2008年原水禁世界大会長崎大会の分科会「被爆者との交流」に参加し、質問した内容について書いた「2008おみやげ通信 第1号」を紹介します。

おみやげ通信「第63回 長崎原爆の日」

質問に答えるみなさん。左から山川さん、早崎さん、松尾さん

質問1「お話では爆風や熱の被害がくわしく語られているが、放射線の被害はどうでしたか」

 被爆した当初は放射能のことなんか知りませんでした。

 ただ助けに来た人たち(原爆にあわなかった人たち)が何日か後に死んで

「ふが悪いねぇ」(運が悪いねぇ)

と当時言ってました。

 10ヶ月たった頃

「原爆にあった者は病院に行け」

と言われ、病院に行くと

「赤血球だか白血球だか(忘れましたが)が半分しかない、どんな食生活しよるね」

と言われました。

松尾ひさおさんの回答

質問2「被爆直後、心の支えとなったものは」

 何にもありません

松尾ひさおさんの回答

 どうしてこんなになったのかと、ただそれだけしか考えていませんでした。

早崎猪之助さんの回答

質問3「父は長崎で被爆していて、その後転々と職を変え、京都で僧侶となりました。自分が小さい頃、父に黙って犬を寺の縁の下に飼っていて、それが見つかり怒った父は、次の日から子犬を一匹一匹殺し始めました。ある日学校から帰ると、タタキに子犬が血を吐いて、頭が変形してザクロのように割れて死んでいました。父は、アロエを口にしながらよだれをたらし、血走った目で『おまえ、なんでこの子犬が死んだかわかるか?おまえに子犬を失った母犬の気持ちがわかるか?生きてることが当たり前と思ってるやろ』と言いました。そんな父を見て、心底怖いと思ったし、精神に異常をきたしていると思いました。父が被爆体験があるとは、その頃知りませんでした。そして今、脳卒中で寝たきりになっており、父の気持ちを確かめることができません。被爆の経験がある方たちで、何か父の気持ちはこうなんじゃないかというアドバイスがあればお願いします。」

 私の場合、教練を受けていたので原爆が落ちても恐怖というものがありませんでした。

 しかも長々と空襲から逃げまどうのではなく一瞬でしたから。

 意味がまったくわからなかったというのが本音です。

松尾ひさお産の回答

 原爆にあってから食べるのに精一杯で心のケアなんて何もありませんでした。

 娘が結婚するときに反対に遭いましたが…

山川米雄さんの回答

 自分自身が結婚するときにためらう気持ちがありました。

早坂猪之助さんの回答

質問4「これから生きていく子どもたちへの願い」

 語ったことを、子どもたちが拡げてほしいです。

山川米雄さんの回答

 当時の先生は「軍隊に行きなさい」としか言わなかった。

 そしてたくさん死んでいった。

 どうぞ先生たち平和を守ってほしいです。

早坂猪之助さんの回答

クイズ

 もへちゃんがした質問はどれでしょう?

 正解者にはおみやげのせんべいをもう一枚プレゼント(笑)!

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

 最後の早阪さんの回答の

当時の先生は『軍隊に行きなさい』としか言わなかった。そしてたくさん死んでいった。どうぞ先生たち平和を守ってほしいです。

という言葉を、先生という仕事をしている私たちは噛みしめなければならないと思います。

 私たちが間違うと、子どもたちの命が奪われるのですから。

クイズの答え

 もへちゃんがした質問は、4番目の「これから生きていく子どもたちへの願い」でした。

 おみやげ通信には、長崎で買ってきた「銘菓クルス」を1枚ずつホッチキスで付けて、先生方に配ります。

 「読んでから食べてくださいね」という一言を添えて(^^)

 クイズの正解者には、クルスをもう1枚プレゼントしたというわけです。

 なお、本ブログでは、正解をメールしてもらえたとしても、クルスをあげることはできませんm(_ _)m

NNNドキュメント「煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」の感想

 前回のブログで

(2020年)8月3日0:55~1:25にNNNドキュメント『煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る』という番組があってました。録画したのですが、まだ見てません。

 さっそくチェックしてみると…

 いいっ!

  • ナレーターが吉川晃司というのもよかったのですが、もへちゃんが名前を聞いたことはあるけど詳しく知らなかった「旧広島陸軍被服支廠(ししょう)」にスポットを当てたドキュメンタリーだったこと
  • 旧広島陸軍被服広島支廠は、世界最大の被爆建物であること
  • 広島はかつて軍都として栄え、市内に少なくとも20の軍の施設があったことから、広島は「加害」の都市なのです。戦時中、被服支廠に学徒動員で働きに来ていた切明千枝子さん(90)が「この建物は、加害の歴史と被害の歴史と両方を語っているもの言わない証人だと思ってる」と話されたこと

 これらの理由から、消去せずにとっておくことにしました。

 再放送もあるみたいです。

  • 8月9日(日)8:00~ BS日テレ
  • 8月9日(日)5:00~/24:00~ 日テレNEWS24

「加害」の立場

 NNNドキュメント「煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」の中で90歳の被爆者・切明さんが語られた「加害と被害の歴史」。

 反戦平和学習というと、ついつい「被害」の立場の学習をしがちですが、「加害」の立場の学習も大事なのです。

 そうしないと、原爆を落としたことを正当化するアメリカの人々と同じになってしまいます。

 そうしないと、私たち自身が同じ過ちを繰り返すことになってしまいます。

 さて、長崎に何度も行ったもへちゃんは、長崎で「加害」のことを学ぶ場所を知っています。

 それは岡まさはる記念 長崎平和資料館です。

 日本26聖人記念碑のすぐそばにあります。

 岡正治さんは、牧師であり、長崎市議会議員であった方です。

 「加害」の立場である朝鮮人被爆者問題や強制連行問題にとりくんだ方でした。

 牧師として、議員として、そして1人の人間として、岡さんは常に弱者の立場、差別され、虐げられる人々の立場に立って行動された方だったそうです。

 その思いを形にしたのが「岡まさはる記念長崎平和資料館」です。

 もへちゃんが以前、人権教育の先進地視察で行ったことがある大阪の中学校の名前がついた千羽鶴やお礼の感想文等が飾ってました。

 修学旅行で長崎に来て、

  • 原爆資料館で「被害」の立場の学習を行い、
  • 岡まさはる記念長崎平和資料館で「加害」の立場を学ぶ

 さすが、人権教育の先進地の学校です!

朗読劇「1945」には

 もへちゃんが子どもたちとともに2019年にとりくんだ朗読劇「1945」では、長崎の原爆のこと(永井隆さんのこと)をとりあげています。

永井隆さん Wikipediaより引用

 そのシナリオをKindle出版しています。

 ちょっとだけ紹介しますね。

 1945年8月9日。

 原子爆弾は私たちの上で破裂した。

 私は傷ついた。
 ちらっと妻の顔がちらついた。
 私らは患者の救護に忙しかった。

 12日。

 学生の死傷者の処置も一応ついたので、夕方私は家へ帰った。

 ただ一面の焼け野原だった。
 私はすぐに見つけた。

 台所のあとに黒い塊(かたまり)を。
 それは焼け尽くして焼け残った骨盤と腰椎であった。
 そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。
 焼けバケツに妻を拾って入れた。
 まだぬくかった。
 私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。
 私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。

     (後略)

朗読劇「1945」より引用

 よろしくお願いしますm(_ _)m

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