2020/06/24
はじめに

前回のブログでは、2018年6月23日の沖縄慰霊の日に向けて、先生方に出した通信を紹介しました。
沖縄の相良倫子さん(当時中学生)が朗読した「平和の詩 生きる」を前もって手に入れることができたので、それを担任の先生方からメッセージ発信してもらおうと思ったからです。
で、もへちゃんはどうしたかというと…
この頃になると、子どもや保護者の中にファンができていた「学年だよりミニ」を当然出しました。
「相良倫子さんの詩 生きる」とは違い、沖縄戦のことをほとんど知らないであろう子どもや保護者に、少しでもわかってもらうための「沖縄戦 入門編」みたいな感じの記事です。
どんなことを書いたかというと…
THE BOOMの「島唄」に込められた深い意味を書きました。
それと沖縄がどうつながるのか?
それは読んでのお楽しみ(^^)。
では「◯◯◯中学校3学年だよりミニ No.48」(2018年6月22日発行)を紹介します。
沖縄慰霊の日
明日、6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
今回はたまたま土曜ですが、沖縄では平日であったとしても学校がお休みになります。
なぜかわかりますか?
沖縄の学校が6.23は、お休み…その理由
それは、73年前に終わった太平洋戦争で、沖縄で陸上戦が行われ、日本で唯一、一般の住民が陸上戦に巻き込まれたことが関係しています。
この沖縄戦では、戦死者は約20万人。
そのうち、一般の住民や子どもどが、その半数の10万人近くも亡くなりました。
なんと沖縄県民の4人に1人が亡くなったのです。(40人のクラスだと10人が亡くなるほどの大惨事です。)
家族全員が亡くなった家もあります。
おじい、おばあ、父さん、母さん、兄ちゃん、姉ちゃんが亡くなって、子ども1人だけ生き残った人もいます。
その子はそれ以降、1人で生きていかなければならなかったのです。
沖縄での戦闘が終結した日が6月23日なので、その日を沖縄は「沖縄慰霊の日」として制定して、戦いで亡くなった人の霊を慰めて、平和を祈る日としたのです。
戦前~戦中の沖縄
戦前の沖縄
昔、沖縄には「殺す」という意味の方言はありませんでした。
日本本土では床の間に刀を飾りますが、沖縄では三線を飾ります。

明治以降、日本が富国強兵に向かった時、沖縄県民はついていきかねました。
それで『日本人としてはおかしいよ』と沖縄の人に対して差別が始まったのです。
昭和に入ると一人前の日本人として認められたいため、沖縄の先生、行政職員が方言をなくす運動を推し進めました。
方言を使うと、罰として首から「方言札」を下げさせられました。
(資料等は「もへちゃん先生の学級通信の資料置き場https://moheji.hatenadiary.jp/entry/hansenheiwa/shimauta)
戦時中の沖縄
学校では、日本本土同様「お国のために死ぬことは名誉なことだ」と教え込まれました。
その結果、太平洋戦争では沖縄の子どもたちは文字通り、死ぬまで働きました。

彼らの遺書には『一人前の日本人として、お国のために』という言葉がいっぱい出てきます。
そしてたくさんの子どもが亡くなりました。
島唄(ザ・ブーム、作詞 作曲…宮沢和史)
2005年のヒット曲「島唄」を作ったザ・ブームの宮沢和史さんは、朝日新聞で次のように語っています。
「島唄」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。
1991年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。
そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。
捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。
極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。
資料館は自分があたかもガマ(自然にできた洞窟)の中にいるような造りになっている。
このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。
だが、その資料館から一歩外に出ると、沖縄の人たちがウージと呼ぶさとうきびが静かに風に揺れている。
この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。
歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。
「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。
「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから。
朝日新聞 「宮沢和史の旅する音楽 その1」より引用
島唄
でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た(でいごの花が咲く頃、米軍がやってきて沖縄を攻撃しはじめた)
でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た(でいごが咲き誇る頃、攻撃は激しくなった)
くり返す悲しみは 島渡る波のよう(たくさんの島民が犠牲になり、悲しみが島中に波のように広がった)
ウージの森であなたと出会い(サトウキビ畑であなたと出会い)
ウージの下で千代にさよなら(サトウキビ畑で永遠のさよならになった)
島唄よ 風に乗り(島唄よ、風に乗り)
鳥とともに 海を渡れ(鳥と一緒に、魂をニライカナイにつれていって)
島唄よ 風に乗り(島唄よ、風に乗り)
届けておくれ 私の涙(ニライカナイにいるあの人へ、私の涙を届けておくれ)
(後略)
島唄 作詞・作曲 宮沢和史


島唄全文は「もへちゃん先生の学級通信の資料置き場」へ(https://moheji.hatenadiary.jp/entry/hansenheiwa/shimauta)
おわりに

2016メーデーで、組合の青年部に平和朗読劇「島唄・がんばろう」を演じてもらったことがあります。
「島唄」が持つ意味(戦中の沖縄の痛み)や現在の沖縄の痛み、基地反対の民衆運動の現状を伝えるとともに、60年前の三井三池での民衆運動の中で生まれた労働歌「がんばろう」の歴史と意味を伝える朗読劇でした。
メーデーですので、学校の先生以外にもいろんな職業の方がいらっしゃいます。
その中で以前、沖縄支店に勤務していたという方は

沖縄にいるころは戦争について会社ぐるみで学んでいたのですが、島唄のことは知りませんでした。
今日、学べてよかったです。
来年は、我が子も連れてきます。
と感想に書かれていました。
知る→感じる→行動する
この方のように、昨日紹介した「平和の詩 生きる」や「島唄」等を知ったあなたが、次にどう行動するかが大事だと私は思います。
「知る」→「感じる」だけでなくその先の「行動する」ことが大事なのです。
これを読んでいるあなたが学校の先生であれば、ぜひ目の前の子どもたちに「知って」「感じた」ことを伝えてください。
それが「行動する」ことの第1歩だと思います。
これを読んでいるあなたが親であれば、ぜひ我が子に「知って」「感じた」ことを、その子の年齢でわかる言葉で伝えてください。
それが「行動する」ことの第1歩だと思います。
そして次の第2歩、第3歩…と子どもとともに歩み始めてもらえたら、私はとても嬉しいです(^o^)
これを読んでいるあなたが小学生、中学生、高校生、短大生、専門学校生、大学生…であるならば、次の世代を作るのはあなたたちです。
ともにがんばりましょう(^^)/
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