2022/03/24
はじめに

2022年2月24日、ロシアがウクライナへ侵攻しました。
今日で1ヶ月です。
毎日のニュースで、ウクライナの人たちの被害が報道されています。
あるニュースで、ロシア攻撃前後の画像(たぶん衛星写真)が映し出され、もへちゃんはショックを受けました。

色とりどりの屋根の住宅街が、ロシアの攻撃により、そのほとんどが破壊されているように見えたからです。
2021年7月18日のウクライナ南部の都市ヴォルノヴァーハ

2022年3月14日のヴォルノヴァーハ

もへちゃんが先生をしてた頃、反戦平和の授業の一環で、体験者の方から話をして頂くことがありました。
ウクライナ侵攻のニュースで映し出された画像を見たもへちゃんは
「1945年6月19日の福岡大空襲、そしてその後の『一面の焼け野原』の話」を思い出したのです。

この写真の1つひとつの住宅には、生活していた家族がいた。
破壊された住宅の家族は、今どうしてるんだろう?
「遠い時代」の話ではなく、今、まさに「今」、ミサイルによる爆撃にさらされている民衆がいるなんて…
そこで今回は、福岡大空襲のことを書いた通信「3年7組学級記録 No.44」(2010年6月21日発行)を紹介します。
6.19
6月19日(土)の夜、君は何をしていたろうか?
サッカー・ワールドカップ・オランダ戦の特集のスポーツニュースを見ていた人もいるかもしれない。
期末テストの勉強で、ワークや整理と対策とにらめっこしていた人もいたかもしれない。
僕は以前、「通知表の問題点を探り、理想の通知表を考える」って学習会で一緒に仕事をしてた川口勝彦さんを思い出してた。
私の8.15 川口 勝彦さん(72) 福岡市早良区

人には消せない記憶があります。
私の場合、それは、まるで火の雨のように焼夷弾が降った福岡大空襲です。
そして、あの大空襲で、私の家のすぐ近く、福岡市下川端町の第十五銀行(現・博多座)の地下で焼死した60人余の犠牲者のことです。
その姿はあまりにもむごく、1人ひとりの姿が今でもはっきりと脳裏に焼き付いています。
当時、私は12歳。
国民学校の6年生でした。
あの日も、いつものように灯火管制の下、暗い部屋で床に就きました。
枕元には、鉄かぶと、防空ずきん、足にはゲートルを巻いたままでした。
午後10時半、ラジオで情報注意報の放送があり、注意報はすぐ警戒警報に変わり、間もなく空襲警報に変わりました。
一斉に「ウーウー」とサイレンが鳴り、母と姉2人と一緒に自宅の畳をはぐって、一坪ほどの壕に入りました。
間もなく、世話役の男の人から安全な所に逃げるよう、指示があり、外にでました。
南の空が真っ赤に染まっていました。
米軍のB29から、焼夷弾が次々に投下されていたからです。
その音は、まるで絹を裂くような音。
あたりは火の雨が降っているかのようでした。
4人で、どこに逃げるか、避難先を探しました。
近くの櫛田神社、旧博多駅、そして第十五銀行ビルの地下はすでに満員と聞きました。
それで、東公園を目指し、その途中、寺の防空壕に避難しました。
空襲は午前1時ごろには終わり、まんじりともしない一夜が明けました。
家に戻る途中、ほとんどの建物が焼き尽くされ、博多湾が丸見えだったことを忘れません。
幸い火は、私の家の数メートル先でくい止められていました。
昼すぎ、第十五銀行地下で犠牲になった人たちが、強制撤去された私のもとの家の跡地に運ばれてきました。
ムシロを敷き詰めた上に次々と運ばれてくる遺体は、全部黒い色でした。
小さな子を抱きしめたまま息絶えた母親。
空をかきむしるような姿で亡くなっていた男の人。
中には、頭がない人、靴だけはいてあとは何も身につけていない人もいました。
熱かったろう、苦しかったろうと、私は茫然自失状態でした。
あんなむごい死はもう2度と見たくありません。
あれから60年が経ちます。
もう戦争は絶対にしてはいけない。
日本は「平和を守る」ことから1歩進めて、「平和を創る」国にならなければいけないと思います。
シリーズ戦後60年 私の8・15⑤ 福岡大空襲 遺体は全部黒い色をしていた 川口勝彦さん 西日本新聞2005.7.23朝刊より引用
65年前の6月19日深夜、福岡市は空襲を受け、1000人近くの方が亡くなった。
いわゆる「福岡大空襲」だ。
川口さんは、小学校の先生時代も、そして退職されてからも、福岡大空襲の語り手として活動していた。
戦争に対する怒り、平和を求める思いが、川口さんの言葉や行動からひしひしと伝わってきた。
けれど…
昨年9月、川口さんは亡くなられた。
戦争を経験された方がどんどん亡くなられている。
僕は、川口さんの思いをみんなに伝えられているだろうか?
自らを問いながら、6月19日の夜を過ごした。
おわりに

我々はウクライナを攻撃していない
2022年3月10日、ウクライナとロシアの外相会談が行われました。
会談後、ロシアのラブロフ外相は「我々は、ウクライナを攻撃していない」と発言しました。

びっくり発言ですが、歴史を学ぶと、同様な発言が繰り返されていることがわかります。
満州事変
「事変」という言葉を使ってますが…。
学研キッズネットの辞典によると
1931(昭和6)年,満州(今の中国東北区)でおきた日本軍と中国軍との武力衝突。
実質的には日本軍による中国への侵略戦争
学研キッズネットより引用
と書いています。
大東亜共栄圏、八紘一宇
日中戦争、太平洋戦争時、日本によるアジアへの戦争を「侵略」ではなく、
- 大東亜共栄圏…日本を盟主として、ともに繁栄すべき東アジアの国々、諸民族
- 八紘一宇…「八紘」とは四方と四隅つまり世界・天下のこと。「宇」は家のこと。全世界を天皇のもとに1つの家とするという意味。
と当時の日本政府は、表現しました。
南スーダン「戦闘行為はなかった」
2016年7月、南スーダンで、政府軍と反政府側とで大規模な武力衝突が起こりました。
首都ジュバでは、270人以上が死亡する武力衝突でした。
この時、自衛隊はPKO(国連平和維持活動)で南スーダンに派遣されており、宿営地の隣にあるビルでも銃撃戦が起きました。
しかしこれらを「戦闘行為」と認めると、自衛隊を派遣した根拠であるPKO参加5原則に抵触することになるため、当時の稲田朋美防衛相や安倍晋三首相は、2016年10月11日の参院予算委員会で「戦闘行為ではなかった」という答弁を繰り返しました。
「戦争万歳」vs「平和ぼけ」
「戦争ではない」と主張してきた人のほとんどが、「戦争をしたい人」と感じるのはもへちゃんだけでしょうか?
侵略する側が、その意図を隠すため「戦争ではない」と言ってきた歴史を人類は持っています。
そんな人が「進め1億 火の玉だ」と主張し、「最後の1人になっても戦え」と命令しました。
負け続け多数の犠牲者を出しているにも関わらず「我々は勝ち続けている」と民衆をだまし続けました。
現代においても、同様のプロパガンダに踊らされ、反戦平和を主張する人に「平和ぼけ」と罵る人がいます。
※プロパガンダ…宣伝。特に、ある政治的意図のもとに主義や思想を強調する宣伝
そんな「戦争万歳な人間」により、あまりにも大多数の民衆が犠牲になった歴史を、日本は持っているというのに…。
だから、もへちゃんは「戦争万歳」より「平和ぼけ」の方が何十倍、何百倍もいいと思っています。
ウクライナへの侵略戦争を「我がこと」に
1945年6月19日の福岡大空襲での死者は1000人近く。
1000人近くの人間が亡くなるということは、その亡くなった人をとりまく人間たちの苦しみ・悲しみが1000件近くあるということです。
どうしようもない喪失感を持った人が、2000~3000人もいるってことです。
だからこそ、その時の悲しみや苦しみが、現在(2022年)までの77年間、反戦平和のメッセージとして伝え続けられているのです。
さて、2022年3月22日のニュースによると、22日までにロシア軍によりウクライナのマリウポリで3000人以上が死亡した可能性があるそうです。
もう「ちょっとしたいざこざ」、「ちょっとした武力衝突」なんて言えるレベルではありません。
今、この時に、空襲で逃げ惑い、生命を亡くしている人がいるのです。
遠い国の他人事ではなく、我がことと思って考えてみてください。
- もし今、愛する家族の頭の上にミサイルが落ちてきたとしたら…
- もし、愛する人が、お別れの言葉も言ってないのに亡くなってしまったら…
- もし、愛する人が全て亡くなり、あなた1人だけ生き残ったら…
ウクライナのゼレンスキー大統領は、日本の国会でのオンライン演説で

1000発以上のミサイルが空爆で落とされ、数十の町が破壊され、全焼しています。
多くの町では、家族や隣の人が殺されても、彼らをちゃんと葬ることさえできません。
埋葬は家の庭の中や道路沿いにせざるを得ません。
と述べました。
これは紛れもない「侵略戦争」なのです。


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