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長崎フィールドワーク(原子爆弾落下中心地→平和公園の壁→山里小学校→白山墓地→如己堂)

2020/08/05

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

 8月前半は、反戦平和のすぐれたドキュメンタリー番組が数多く放送されています。

 もへちゃんも、8月前半は、このブログで反戦平和の記事を書いています。

 今回は、2008年原水禁世界大会長崎大会で参加したフィールドワークのことを書いた「おみやげ通信 第1号 第4面」(2008年8月21日発行)を紹介します。

第63回 長崎 原爆の日

 2008年8月8日の午後は、フィールドワークに参加しました。

①出発地点(原爆投下中心地)

 原爆投下地点を示す碑には「原子爆弾落下中心地」と刻まれていました。

 「落下」と言う言葉は自然と落ちてきた時に使う言葉であり、被爆者や被爆者二世は「投下」とすべきだと行政に意見しているそうです。

 また碑の後ろにある文には、どこの国が落としたかは書かれていません。

 爆風は爆心地から1㎞先で秒速170メートル。

 また爆心地では1平方メートルあたり6.7トン~10トンの圧力が瞬間的に発生しました。

 まず、猛烈な爆風で、家も家財道具もそのまま押しつぶされたのです。

 護岸工事の際、遺骨とともに家財道具がたくさん出てきたそうです。

②平和公園の壁

 整備された公園への道からそれ、柵を乗り越えやぶの中を行くと刑務所の壁が20~30メートルほど残っているところにたどりつきました。

 平和公園は当時、浦上刑務所だったのです。

 ここで被爆したのは、職員とその家族134人、収監されていた人81人(うち中国人は33人、朝鮮・韓国人は13人)。

 柵を設けていたのは、行政が観光客を入れたがらないからだそうです。

③山里小学校

 爆心地から630メートル。

 そのとき男の教員は防空壕掘り、女の教員は田の草取り、児童の多くは自宅で被爆したそうです。

 1600人の児童のうち生き残ったのは約200人。

 そのうちの31人の子が手記を書き、永井隆さんが編集して「原子雲の下に生きて」を出版。

 その印税で「あの子らの像」を建てました。

④白山墓地 (はくさんぼち)

 爆心地から一番近かった墓地である白山墓地のある橋口町では、町民484人中生き残ったのは4人。

 だから墓石に刻まれた文字を見ると8月9日に亡くなった人が多いのです。

 女性や子ども老人の名前が多いのは、男は戦場に駆り出されていたからです。

 また面によって手触りの違う墓がありました。

 原爆の落ちた側が熱で変質してザラザラになったそうです。

⑤如己堂 (にょこどう)

 永井隆さんは戦前、最先端だったレントゲン科の医師として結核予防に奔走しました。

 しかしその後、戦時下でフィルム不足のため直接透視による診断に多く立ち会ったことで、昭和20(1945)年6月、白血病で余命3年と診断されました。

 この直後の8月9日、原爆投下に遭遇し、重症を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力しました。

 最愛の妻は爆死しましたが、さいわい子どもたちは疎開して無事でした。

 その後、原爆症で床に伏せた永井は、ベッドの中から原爆症の研究と執筆活動に入り、次々と名作

  • ロザリオの鎖
  • この子を残して
  • 原子雲の下に生きて
  • 長崎の鐘

などの小説や随筆を生み出し、浦上の人々をはげまし続けました。

 「この子を残して」は映画化、「長崎の鐘」はレコード化され、戦後の名曲として今に歌い継がれています。

編集後記

 学んだことが多すぎて、おみやげ通信にまだ書ききれない~!

  • 9日(2008/8/9)の銭座小学校の平和集会のこと
  • そこに来てた高校生1万人署名平和大使の二人の素敵な高校生のこと
  • 如己堂の名前の由来
  • 電車の中から見た福田総理の乗った車

興味があったら聞いてくださ~い。

 あと「原始雲の下に生きて」も買ってきました~

フィールドワーク…暑~い、ひざ痛~い

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

 昨夜(2020/8/4深夜~2020/8/5早朝)は

  • NHK総合 私と沖縄戦「MAX MINA」
  • FNS九州8局共同制作 ドキュメント九州「青い正義感」

がありました。

私と沖縄戦「MAX MINA」の感想

 私と沖縄戦「MAX MINA」は、5分間の作品ですが、沖縄戦の画像を豊富に使っていて、とてもわかりやすかったです。

ドキュメント九州「青い正義感」の感想

 ドキュメント九州「青い正義感」は、題名から、若者の反戦平和の活動のドキュメンタリーかと思っていました。

 すると大間違い(>_<)

 沖縄出身の75歳の俳優・津嘉山正種(つかやま まさね)さんを追ったドキュメンタリーでした。

 10年ぶりに再演したひとり語り「人類館」では、ガマで隠れていた赤ちゃんが泣き出し、それを日本兵が刺し殺す場面があり、津嘉山さんは泣きながら演じていました。

 もへちゃんも涙が出ました。

 そして思い出しました…

平和劇にとりくむようになったのは

 もへちゃんが、平和劇にとりくむようになったきっかけは、当時(1987年)月刊 演劇教育という雑誌に載っていた「ほうせんか」という沖縄戦のことを題材にしたシナリオです。

 その中でも、赤ちゃんが泣き止まないために日本兵から殺されてしまいました。

 ドキュメンタリーでは、津嘉山さん自身、沖縄戦のころは1歳で、

「母から『お前は泣かなかったから、殺されなかった』と聞かされていた」

と語ってらっしゃいました。

さぁ今夜も

 さぁ今夜から明日にかけて

  • 8/6(0:50~1:40) NHK総合 BS1スペシャル「1945ひろしまタイムライン もし75年前にSNSがあったら」
  • 8/6(8:00~8:30)NHK総合 令和2年 広島平和記念式典
  • 8/6(22:00~23:00) NHK総合 NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

録画するぞ~

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