2021/07/13
はじめに
前回、8月6日が出校日ではない学校での、「7月の平和集会」について書いた通信を紹介しました。
その通信の中で「折り鶴の少女 佐々木禎子さん」について触れました。
2013年、ヒロシマ・フクシマをテーマに平和劇を創ろうとした際、図書館等で借りてきた「折り鶴の少女 佐々木禎子さん」の言動がどれも違っていました。
当時もへちゃんが借りてきた、禎子さんのことが書かれた本
どうしても事実を知りたくなったもへちゃんは、福岡県に在住されている禎子さんの実兄・佐々木雅弘さんに連絡を取り、取材させてもらったり、平和集会実行委員会の子たちへの講話をしていただいたりしました。
その際、雅弘さんから
禎子の話が一人歩きしてしまい、父が悲しんでいた。
だから今、本当の禎子のことを知ってもらいたいんです。
と取材に応えてくださったわけを聞きました。
学校を異動し、2017年、雅弘さんの生き様をテーマにした平和朗読劇にとりくんだ際も、子どもたちとともに取材させていただきました。
そこで今回は、佐々木雅弘さんに生徒と聞き取りをした2013年の際の書き起こしを紹介します。
いつもの学級通信よりかなり長いのですが、貴重な証言だと思います。
サダコさんの実の兄・佐々木雅弘さんからのききとり
僕も禎子も、同じ場所で同じように被爆しました。
そして禎子は、12歳で天に召されました。
それぞれに役割があるんだと思っています。
さて、禎子は、日本よりむしろ世界での方が知られています。
「サダコを知ってますか」というとほとんどの人が手を挙げるんです。
日本だと広島だったら、禎子のことは知っているんですけど…。
禎子は、すごい子でした。
12歳で亡くなりました。
中学へは入学したけれど、一度も登校できませんでした。
そして「三重苦」でした。
三重苦とは?
1つめは経済的な面
禎子が入院したときは極貧の状態でした。
その日食べるお米が無い、おかずも無いんです。
それ以前は、福岡でいえば天神みたいなところで、当時珍しい3階建ての床屋で、評判も良く、恵まれた生活をしていました。
禎子が入院する一年ちょっと前に、父親が友人の借金の連帯保証人になりました。
そしてその友人が夜逃げ。
借金を返さなければならなくなりました。
禎子はそのことを認識している中、1955年2月21日入院したんです。
2つめは精神的な面
12歳の子どもで命がなくなるってわかったら、わがままを言いたくなるはずです。
けれど両親に心配かけちゃいけないということで、入院中は1回もわがままを言いませんでした。
3つめは肉体的な面
白血病は血液のがんで、末期になると身体全身にものすごい痛みがあるんです。
がん患者は、モルヒネで痛みを麻痺させ、その間に眠り薬を注射され、だんだん弱っていって亡くなります。
禎子はそのことを誰かから聞いていて、死ぬまで痛み止めを打たせませんでした。
両親にも私にも「今日は痛いんだよ」って顔を見せたことがなかったです。
12歳の子にそんなことができますか?
想いやり
禎子は、三重苦をいかに乗り切ったのでしょうか。
それは、禎子の究極の心「想いやり」(相手のことを想いやれる心)なんです。
想いやり
今の学校でも関係あります。
- 想いやりの心を周りにめぐらせていたら、自分の周りに小さな平和ができるはず
- 自分の周りの小さな平和無くして、大きな平和は繋がらない
- 学校で、家庭で小さな平和ができて、重なり合って大きく繋がっていく
- この想いやりが社会全体の平和に繋がり、それがずーっと繋がっていくと世界平和に繋がっていく
原爆のため白血病を発症し、8ヶ月の闘病の後、12歳で亡くなった折り鶴の少女、佐々木禎子。
あれから72年が過ぎ去りました。(聞き取りは2013年)
禎子は今もなお、広島の平和公園にある原爆の子の像の一番上で、折り鶴を抱えながら、平和の象徴として生き続けています。
しかしこの瞬間にも世界のどこかで紛争や戦争があり、殺しあいをしています。
戦争は憎しみの心を燃え上がらせ、さらに強い憎しみを生み出します。
過去の悲劇は伝えていかねばなりません。
しかし、遺恨の心は歴史に刻むべきではありません。
禎子は命と引き替えに、そのことを教えてくれました。
雅弘さんから聞いた、禎子さんの事実
1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下されました。
その情景とにおいは、体験したことも無い地獄絵の様相を呈していました。
迫り来る火炎の竜巻から逃れるため、必死で三篠川に逃れました。
川の上で4~5時間さまよい続けました。
その間、黒い雨と放射線を含んだちりにまみれ続けました。
これが禎子の運命を狂わせるとは、知るよしもありませんでした。
それからすぐ終戦となり、みんなと労苦を分かち合いながら、日本は復興していったのです。
禎子も健康で元気に育っていきました。
1954(昭和29)年4月、幟町小学校6年に進級しました。
男子顔負けの足の速い女の子でした。
しかしこのとき既に、病魔が静かに近寄ってきていたのです。
そして同じ頃、家がお金の支払いに極端に困り初めていたことに、禎子も私も全く気づいていませんでした。
父は友人の保証人を引き受けて、大きな借金を抱えていました。
ひょっとしたら
そんな中、禎子は自分の身体の変化を感じていました。
「うち、ひょっとしたら原爆病なんじゃろうか?」
父も、このところ元気がない禎子のあごの下の腫れが気になっていました。
かかりつけの小児科医から
「本当にお気の毒ですが、娘さんは早ければ3ヶ月、長くても1年くらいと覚悟しといた方がいいでしょう」
と告知されました。
「まさか、自分の娘が白血病じゃなんて」
愕然とした父と母は、どうしても、お金が無くても、禎子を喜ばせたいと考えました。
そしてすぐ親戚からお金をかき集めました。
「禎子、父ちゃんと着物を買いに行こう」
でも禎子は、その時、お金のやりくりが厳しいことを全部知っていました。
「お父ちゃん、入院は洋服でええし、着物は退院のお祝いにこうて」
「ばかじゃのうお前は。お金のことは心配せんでもええんじゃ」
母は、花嫁衣装のつもりで、徹夜で桜模様の着物を縫い上げました。
「禎子ごめんね、これがお母ちゃんが今してあげられる精一杯のことやけん」
入院
1955年2月
2月21日入院
その後、禎子は自分のカルテの保管している場所を知り、誰にも知られないように白血球の数をメモに書き取りはじめました。
1955年5月
5月、父さんは、がんの進行状態を医師から聞き、痛みを我慢している娘のことは察しが付きました。
けれど痛みを我慢している禎子に、たった800円の血液すら買ってやれないのです。
1人散髪すると150円、一日の売り上げは800円でした。
禎子はお父さんの気持ちを察し、痛みをこらえて隠れて泣くしかありませんでした。
あまりの激痛に耐えられなかったんだと思います。
たった1度だけ、家に電話をかけてきたことがありました。
「お父ちゃん、今、お見舞いのお金150円持っとるけん、このお金足せば注射できる?でもね、急がんでもええけんね」
と遠慮がちに言ったそうです。
何もかも我慢している娘、その上そんなことまで言わせて、なんと情けない親か。
1955年7月
7月26日院長回診、こっそり見たカルテには病名「亜急性リンパ性白血病」と書かれていました。
禎子は自分の病気が白血病だと知ってしまいました。
白血球の数をメモすることもやめてしまいました。
1955年8月
8月、禎子は千羽鶴のおまじないを信じ、折り鶴を折り始めました。
生きる夢をつなげ、苦痛とさみしさを紛らわせるために、一生懸命、一羽一羽の折り鶴に自分の残りの命をかけ、願いを折り込んでいきました。
折り鶴は1000羽を超えました。
禎子がどんなに痛いかを察し、私たちが慰めようとしても、禎子は気丈にふるまうのです。
わずか12歳の娘が…と思うと本当に辛すぎます。
1955年9月
9月、トイレも足が痛くて歩きにくいのに、病室でするのを嫌がりました。
「お母ちゃんがおぶっていくよ」
「ええけん、大丈夫じゃけん。自分で歩かにゃ、歩けんようになるけん」
次の朝、母が仕事に帰るころ、息苦しそうに足を引きずりながら、エレベーターのところまでやっと着いてきました。
「じゃあまたね」と母が手を振ると、
「お母ちゃんは仕事に戻らんといけんのじゃねぇ」と禎子が初めて弱音を吐き、大粒の涙を流しました。
入院中、禎子が涙を流したのはそれが最初で最後でした。
我慢して我慢して我慢してこぼれた涙。
でも禎子はこの涙さえ反省して、その後涙を見せることはありませんでした。
1955年10月25日
10月25日、禎子の急変が告げられ、私たちは日赤に駆けつけました。
うつろな目をした禎子がそこに。
そっと自分のほほを禎子のほほにこすりつけ、
「禎子、痛いか、ごめんな、父ちゃんはここにおるよ」
禎子は軽いほほえみをかえしました。
「お父ちゃん、来てくれてありがとう」
「そんなこと言うなよ。何も言わんでいいんじゃ。来るのは当たり前じゃ」
もう涙を隠そうとしても止まりません。
お母さんは禎子の手を握り、とりすがって泣いています。
「お母ちゃん、泣いちゃいけん。禎子は大丈夫じゃけん、泣かんで」
なお、母を想いやる禎子
「禎子、何か食べたいものは無いか」
「お父ちゃん、お茶漬けが食べたい」
命の消える時を迎えても、お金を使わせまいと心配する娘
禎子、もうお金のことは心配せんでもええんじゃ…と一度でも自信を持って言ってやりたかった。
禎子が望んだお茶漬けを口に入れてやると「おいしい。ありがとう」そう言って母に抱かれる赤ちゃんみたいに眠るように目を閉じました。
1955(昭和30)年10月25日午前9時57分、苦しんで苦しんだ分、本当に安らかな旅立ちでした。
禎子の死後、ベッドの下から1枚のメモが見つかりました。
誰も知らなかったメモは、禎子が書き残した自分の白血球の数でした。
禎子は白血球の数を書き写しながら、自分の命の長さを確かめていたのです。
残り少ない命と知っても、自分のさだめを愚痴らず恨まず、娘としてなるべく穏やかにふるまい、痛みと苦しみを大きな想いやりの心に包み込み、私たちに感謝の心で見事な生き様を見せてくれました。
自分の命が無くなるとわかっていて、他人に思いやりの心をめぐらせてこその本当の思いやりの心。
もっと光や風を気持ちいいと感じさせてやりたかった。
禎子と同世代のあなたたちへ
禎子とあなた自身を比べてみてください。
禎子と同世代のあなたたち、
- 人に対しての思いやりはありましたか
- 両親に対しての感謝はありましたか
- 今日、ご飯をいただけている、ありがたいと思いましたか
すべて相手を思いやったときに生まれる心です。
小さな平和は、身近なところから。
いじめがあるような中に、小さな平和はできはしません。
それを無くせなくて、大きな平和なんてありません。
もう一つ、私たち家族に起こった悲しみも、原爆によるたくさんの悲しみも、これらの悲しみは忘れることがあってはなりません。
授業や朗読劇やいろいろな方法で伝え続けていかなければなりません。
しかし、その時点で受けた恨み辛み、いわゆる遺恨の心は伝えるべきでは無い。
遺恨を伝えていけば、相手と打ち解ける心ができあがりません。
相手のことをしっかり聞いて、何を相手は求めているのかを把握した上で、何か話し合いの道筋がないものかと考えることが、武器を使わない・戦争をなくす心に繋がっていく大きな第一歩になります。
原爆投下命令を出したトルーマンの孫と
私はこの心を持ってアメリカに行き、原爆投下命令を出したトルーマン大統領のお孫さんに、ニューヨークでお会いしました。
「私は、原爆の一被害者としてはお会いしません。お互い戦争をした国が、どうやったら次の世代の子どもたちに、戦争の無い美しい地球を残せるかを話し合いたい。」
だから彼は来たのです。
想像してたより柔和な顔をしていました。
「あなたは原爆について、なにかこれまで思われたことはありますか」
「雅弘、おじいさまが原爆投下の命令を下したと知って、若い頃に嫌悪感を感じ、非常に荒れた時期があった。雅弘の話を聞いて、ヒロシマ・ナガサキの被爆者に対する考え方が一変した。過去の遺恨ではなく、将来どうするかが大切なんだとわかった。今まではヒロシマ・ナガサキに行けば『あれが原爆を命令したトルーマンの孫だ。たたき殺してしまえ』と言われたり、罵声を浴びせられると思っていた。雅弘の話を聞いて、やはり聞くべき事は聞かねばならないとわかった」
その後、彼はヒロシマ・ナガサキを訪れ40数名の被爆者の話に真摯に耳を傾けました。
被爆者も誰一人罵声を浴びせる人はいませんでした。
おわりに
今回紹介した「禎子さんの事実」は、2013年の平和劇実行委員への講演を書き起こしたものです。
聞かせてもらったお話、その後にさせてもらった質問…本やインターネットでは調べられなかった事実を元に、連作2013年「いのちの理由」、2014年「禎子ふたたび」のシナリオを書きました。
もへちゃんの平和劇のシナリオの中で唯一の連作です。
いい作品だから、HKT48とか乃木坂46とかKing & Princeとかの人がキャストで、反戦平和のドラマのシナリオになったらいいな~(^o^)
あっ、そのためにはまず電子書籍化して、世に出さねば…(^^;)
SADAKOLEGACY(サダコレガシー)
今回紹介した多くの画像に「SADAKOLEGACYより引用」と書いていたことにお気づきでしょうか?
この団体は、佐々木雅弘さんが代表となり、佐々木禎子さんの親族が運営する唯一の団体です。
禎子さんが遺した「折り鶴」と世界に伝わるサダコストーリーをつなぎ、「想いやり」の心を持って、人・団体・活動の輪を広げることを目的としています。
禎子の千羽鶴
2013年平和劇「いのちの理由」
2014年平和劇「禎子ふたたび」
2017年平和朗読劇「想いやり」
これらのシナリオを書く際に参考にしたのは
- 上記の「SADAKOLEGACY」
- 佐々木雅弘さん自身が書いた「禎子の千羽鶴」
- 佐々木雅弘さんからの聞き取り
です。
もしあなたが、折り鶴の少女 禎子さんのことを平和学習でとりあげるのであれば、これらは超お薦めです(^o^)
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