2022/09/15
はじめに
もへちゃんは数学の先生をしてましたが、学生時代、得意だったわけではありません。
得意だった教科は、現代国語と世界史。
世界史が得意になった理由の1つに、「語呂合わせ」での年号暗記が自分に合っていたことが挙げられます。
社会の先生に「年号を覚えることはあまり意味が無い」と言われたことがありますが、ほぼ全ての年号を記憶していたもへちゃんは、歴史の流れをまるでドラマのように感じとることができてました。
そこで、語呂合わせの年表暗記を紹介した学級通信「中央フリーウェイ No.46」(1987年10月15日発行)を紹介します。
年表暗記法 part 1
憶えて損なことじゃない。
まだ憶えてない人「語呂合わせ」、いかが?
23-5817
子どもの頃の自宅の電話番号(^^)
記録158
社会の歴史の年号は自分で勉強したのは、薄くなって消えかかっているけど、先生が言ってた語呂合わせ法のだけは憶えている。
だから、時々教えてください。
みんなも知ってるように、僕は高校入試・大学入試でずいぶん語呂合わせ法に助けられたし、今では電話番号憶えにも使っているのだ。
歴史の年号の語呂合わせを紹介しよう。
- 紀元前3000年頃…エジプト、メソポタミア文明起こる
- 「さん然(3000)と オリエント文明 誕生す」
- 紀元前2500年頃…インダス文明起こる
- 「インダスの 濁れを(2500)きれいに 文明誕生」
- 紀元前334年…アレクサンダー大王、東方遠征を始める
- 「さんざん死(334)なせた 東方遠征」
- 紀元前221年…秦が、中国を統一
- 「にこにこ統一(221) 始皇帝」
- 紀元前202年…漢(前漢)が、中国を統一
- 「漢のお触れに(202) 人々 落ち着く」
- 紀元57年(紀元前ではない!)…倭奴国王が、漢から金印を授かる
- 「航海の ご難(57)を乗り越え 金印授かる」
- 239年…卑弥呼が魏に使いを送る
- 「文来(239)れば 卑弥呼使いを 魏に送り」
- 313年…ローマ帝国で、キリスト教公認する
- 「再三迫害したのち 公認し」
- 375年…ゲルマン民族、大移動開始
- 「ゲルマン民族 皆殺し」
- 476年…ローマ帝国、東西に分離
- 「死なん(む)(476)とすなり 西ローマ」
- 538年…日本に仏教が伝わる
- 「ほっとけ(仏) ほっとけ(仏) ゴミ屋(538)さん」
- 589年…隋が、南北朝を統一(中国が「隋」という国になる)
- 「公約(589)を 果たして楊堅、隋を立て」
- 593年…聖徳太子、摂政となる
- 「聖徳太子は コックさん(593)」
- 604年…十七条の憲法
- 「群れ寄(604)せる役人に 憲法を」
- 610年…イスラム教、開かれる
- 「ムード(610)満点 イスラム教」
おわりに
通信内で「子どもの頃の自宅の電話番号の語呂合わせ」を書いてますが、実際の学級通信では当時勤めていた中学校の電話番号の語呂合わせを書いてました。
個人情報をネットにできるだけ出さないための工夫ですので、どうかご勘弁をm(_ _)m
今はスマホが記憶してくれるので電話番号を憶える必要はありませんが、当時はそんな便利な物は無かったのです。
23-5817(兄さん 恐いな)
小学校3年生くらいだったでしょうか。
自宅に電話が付きました。
電話の使い方を母から教えてもらう際、
23-5817は「兄さん 恐いな」と憶えなさい。
と教えてくれました。
もへちゃんが「語呂合わせ」に初めて出会った瞬間です。
なんてすごい憶え方なんだ(^^)
と、まるで雷に打たれたかのような感動でした。
その証拠に、50年経った今でも「23-5817」を憶えているのですから。
ほっとけ ほっとけ ゴミ屋さん
今回紹介した年号暗記法の中で、「23-5817(兄さん 恐いな)」と同じくらい、インパクトがあって、もへちゃんの心に残ったのは
日本に仏教が伝わる…538年
ほっとけ(仏)、ほっとけ(仏)、ゴミ屋さん
でした。
みなさんはどうだったでしょうか?
聖徳太子はいなかった?!
今回紹介した通信は、1987年発行です。
あれから35年、歴史の教科書に載っている記載も変更されました。
その1つに「聖徳太子」問題があります。
帝国書院「聖徳太子」は、なぜ「聖徳太子(厩戸王)」と表記されるようになったのですか
帝国書院という社会科の教科書の会社のホームページには、次のような記事があります。
かつての教科書の「聖徳太子」の記述は、推古天皇の摂政として、十七条の憲法や冠位十二階の制定、仏教の交流や遣隋使の派遣など、重要な政策を一手に担う革新的な政治を行った人物として記述されていました。
この「聖徳太子」の事績は、奈良時代前半に成立した『日本書紀』に依拠しており、教科書では明治期に近代国家の体制や歩みと重ねて顕彰して記述されるようになりました。
しかし、「聖徳太子」の記述の根拠となる史料の時期を分析すると、『日本書紀』は奈良時代初期、法隆寺関連の史料は、確実に年代が確認できるのが奈良時代中期になります。
つまり、聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。
また、「聖徳」とは厩戸王の没後におくられた名であること、また「太子」は「皇太子」の意味ですが、厩戸王存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低いことも、現在の研究では分かっています。
このような状況から、「聖徳太子」の存在自体を否定する説もでています。
しかし、その記述内容を分析し、ほかの史料と合わせてみると、
- 「聖徳太子」のモデルとなった「厩戸王」といわれる実在の人物がいたこと、
- その人物が、奈良県斑鳩の地に斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)を営むほどの有力な王族であったこと、
- 中国の『隋書』などからも倭国に中国の太子に対応するような有力な王子がいるとみていたこと
などは確実にいうことができます。
そのため、現在では、推古朝において、蘇我馬子とともに厩戸王が政治を行ったというのが有力となっており、弊社でもその考えのもと、「聖徳太子(厩戸王)」と表記しています。
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