拾ってきた原爆瓦で平和学習(後編)

2022/08/25

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

原爆ドーム横の元安川で拾った原爆瓦

 もへちゃんが先生になって2年目、1986年の夏、バイクで北海道にツーリングに行きました。

 往路の途中、広島を通るので

もへちゃん
もへちゃん

 せっかくだから平和記念公園に寄ろう

ということになりました。

 この時、すでに「原爆瓦 世界史をつくる十代たち」(山口勇子 著・平和文化 刊)を読んでいたもへちゃんは、

本の中の高校生たちがやったように、原爆ドーム横の元安川で、裸足になって川底を探り、原爆瓦を拾ってみることにしました。

右が原爆ドーム、左が元安川。原爆瓦は、黄丸のあたりで拾いました

 その時の1つが、授業「原爆瓦」で用いた本物の原爆瓦です。

 原爆瓦で平和学習シリーズ最終回の今回は、

  • 触ったり、匂いを嗅いだりしたものが「原爆瓦」だったことを知った
  • 瓦の表面のブツブツは、3000℃(空き缶なら1秒で穴が開いてしまうようなアセチレンバーナーの温度以上の炎で焼かれた結果だったことを知った

そんな子どもたちに、授業の終わりに配布した「道徳読み物資料」(2016年1月21日発行)を紹介します。

道徳「原爆瓦」

 1986年に、広島の原爆ドーム横の川(元安川)で拾ってきた瓦(の一部)だったものです。

 瓦の表面の釉薬うわぐすりが、原爆の熱で沸騰し、そして冷えたためブツブツ状になっています。

 普通の瓦と比べてみてください。

  • 爆心地の温度は、3000℃から7000℃
  • 鉄が溶ける温度は、1500℃
  • 太陽の表面温度は、5700℃
もへちゃん
もへちゃん

 まさに太陽が落ちてきたのです。

 あの日(1945年の8月6日)、この瓦は原爆の炎に焼かれたのです。

 瓦の叫びが聞こえませんか。

天が まっかに 燃えたとき

わたしの からだは とかされた。

ヒロシマの 叫びを ともに

世界の人よ

 原爆犠牲ヒロシマの碑 碑文より引用

「原爆小景」より 水ヲ下サイ
                原 民喜たみき
水ヲ下サイ   
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダホウガ マシデ
死ンダホウガ
アア 
タスケテ タスケテ
水ヲ 
水ヲ  
ドウカ  
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ  
街ガ無クナリ
川ガ  
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル 
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ 
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ 
フラフラノ
コノ メチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ

原爆の熱線について

 1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29から史上初めて人類の頭上に原子爆弾リトルボーイが投下された。

 目標は、広島、小倉、長崎のいずれかであったが、天候が良好であった広島に決定した。

 投下目標は、T字型の相生橋。8時15分原子爆弾は、B29から離れて落下していった。

 43秒後、原子爆弾は風に流され相生橋あいおいばし南東300メートルにある島病院の上空600mで目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽とも言える炎の球体をつくった。

100万分の1秒後

 炸裂さくれつの100万分の1秒後、核分裂が連続して起こり、大量の放射線を放出し、地上にいた建物や人々を貫いた。

1秒後

 1秒後、炎の球体は最大直径280メートルの大きさとなった。中心の温度は、100万度を超え、爆心地周辺の地表面の温度は3000度~4000度にも達した。

 3000度~4000度というと、太陽の表面温度とほぼ同じである。

3~4秒後

 つまり、地上にいた人々は、3~4秒間、太陽の表面にさらされた状態だった。

 地上にいた人は、一瞬にして体の水分が蒸発し、真っ黒な炭の固まりとなった。

爆風と放射線

5秒後以降

 その後、時速300km以上の爆風が広島の街を襲った。

 ガラスは割れ、木造の建物は粉々に破壊された。

 そして、ガラスや木の柱の破片が、新幹線の速さで吹き飛んだ。

 コンクリートの壁には、割れたガラスの破片が突き刺さり、大やけどを負いながらも奇跡的に一命を取り留めた人々にも大量の破片が突き刺さった。

原爆による死者数

 当時35万人前後の人々が広島にいたとされている。

 この一発の原子爆弾による死者は、今でも正確につかめていない。

 1945年12月までに約14万人が亡くなったと考えられている。

  • その半数は、爆風によって
  • 全体の35%の人は熱によってなくなった。
  • また、急激に大量の放射線を浴びたことによって約15%の方がなくなったとされている。

 しかし、原子爆弾の被害は続く。

 大量に放射線を浴びたことによって、白血病など原爆後遺症に苦しんだ。

 その後の調べで、原子爆弾による死者は約20万人と言われている。

もへちゃん
もへちゃん

 君は、この事実をどれくらい知っていたろうか。

 学ばなければ「知る」ことはできない。

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

 1986年は、もへちゃん自身が原爆瓦を拾いました。

広島フィールドワーク

 それから10年ほど後、当時勤務していた学校の文化委員会の子どもたちを連れて、広島にフィールドワークに行きました。

 その年の平和集会のテーマが「ヒロシマ」だったから、文化委員会の子たちが事前調査に行ったわけです。

 子どもたちを3つのグループ

  • 詩「生ましめんかな」の作者 栗原貞子さんからの聞き取り班
  • 平和記念公園に来ている人達へのインタビュー班
  • 原爆瓦探し班

に分け、もへちゃんは「原爆瓦探し」班を引率しました。

もへちゃん
もへちゃん

 すっごく栗原貞子さんにお会いしたかったのですが…。

 原爆瓦を拾ったことがあるのは、もへちゃんだけだったので、仕方なかったのです。

生ましめんかな
            栗原貞子
  

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。


マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

原爆瓦の残留放射能

 文化委員会による広島フィールドワークでは、10数個の原爆瓦を拾いました。

 そのうちの1個を大学の先生に送り、残留放射能を調べてもらいました。

 結果は…

 被爆して数年は放射線を出していたでしょうけれども、今はもう放射線は出していません。

 その結果を聞いて、本物の原爆瓦を「触ったり」「匂いを嗅いだり」する授業を思いつきました。

 もちろん授業の終盤に

もへちゃん
もへちゃん

 今日の授業で多くの人は、原爆瓦をじかに触ったやろ。

 顔をすっごく近づけて、においを嗅いだ人もおるよね。

 この瓦は、3000℃以上の炎で焼かれただけじゃない。

 大量の放射線も浴びたんよ。

 その結果、爆心地から1km以内の生物は、致命的な影響を受けた。

 その多くが、数日のうちに死んでしまった。

 君、大丈夫?

 被爆した物体は、しばらくの間、放射線を出すって知ってる?

 えっ…

 なんて心配させた後に、大学の先生から聞いた調査の結果を知らせたのは、言うまでもありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました