与謝野晶子に学ぶ「新型コロナウイルスに対する母の決意」

2020/05/22

はじめに

もへちゃん
もへちゃん

 私の住む福岡は、段階的に学校が再開しつつあります。

 やがて関東と北海道もそうなっていくでしょう。

 いつもの年と違い、学級開きに伴う様々なことを、省略もしくは時短で行わなければならないからこそ、学級通信が重要だと思います。

 そんな慌ただしい中ですが、保護者にぜひこんなこと伝えたいな~と思ったことを通信にしてみました。

 それは、100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)で、わが子を守ろうとしてた与謝野晶子さんの強い意志についてです。

与謝野晶子に学ぶ「新型コロナウイルスに対する母の決意」

与謝野晶子さんとは

 与謝野晶子さん(1878年12月7日~1942年5月29日)は、歌人であり、作家であり、思想家であり、ロマン主義文学の中心的な人です。

 私が好きな作品は、日露戦争まっただ中で発表した「君死にたまふことなかれ」という詩です。

 君死にたまふことなかれ   

   ――旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて

   あゝをとうとよ、君を泣く、

   君死にたまふことなかれ、

   末に生れし君なれば

   親のなさけはまさりしも、

   親は刃をにぎらせて

   人を殺せとをしえしや、

   人を殺して死ねよとて

   二十四までををそだてしや。

       後略

明星・1904年9月号
与謝野晶子さん Wikipediaより引用

  当然、世論からバッシングを受けます。

  • 「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為である。」(天皇さまが宣言した教育に関する教えや、戦争を始める際に言われたお言葉に反する行為だ)
  • 「乱臣なり、賊子なり。」(国を乱す臣下だ。親を害する子だ。)

 それに対して

「当節(とうせつ)のやう(よう)に死ねよ死ねよと申し(もうし)候(そうろう)こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき(いおおき)教育勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや。」

(最近「お国のために死ね、死ね」と言うことが多いし、何でもかんでも「お国のために尽くせ」という文字、『恐れ多い教育勅語』みたいな言い方をする流行は、かえって危険だと思いませんか)

と堂々と反論しました。

 また雑誌「明星」では

「私はまことの心をまことの声に出だし候とより以外に、歌のよみかた心得ず候。」

(私は正しいと思ったことをそのまま言葉に出すこと以外、歌の詠み方を知りません)

とも書いています。

 日本全体が戦争に向かって転がり落ちようとしていた時代に、大声で堂々と、そして論理的に反論した方です。

100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)

 今(2020年)、新型コロナウイルスとの闘いの真っ只中ですが、人類は100年前にスペイン風邪(インフルエンザ)で、感染症と闘っています。

 スペイン風邪と呼んでいますが、発生場所はスペインではありません。

 第1次世界大戦中だったため、各国が感染の被害を公にしなかったからです。

 100年前だったにも関わらず、戦争が元になり、流行は世界を駆け巡りました。

 1918年1月から1920年12月で、世界中で5億人(世界人口の1/4)が感染し、死者数は1700万人とも1億人とも言われています。

 日本でも、1918年10月から3度に渡って大流行し、2380万人が感染(当時の日本の人口の1/2弱)、死者数は39万人弱でした。

1919年 マスクをつける日本の女性たち Wikipediaより引用

与謝野晶子さんvsスペイン風邪

 与謝野晶子さんとそのつれあいの与謝野鉄幹さん夫婦は、子だくさんでした。

 1919年に生まれた子を入れると11人の子持ちのお母さんでした。

 日本人の2人に1人が感染し、39万人が亡くなったスペイン風邪。

 まさにパンデミック、感染爆発ですね。

 日本全体がパニックのさなか、晶子さんは「死の恐怖」と題する随筆を新聞に寄せています。

 悪性の感冒(かんぼう)が近頃のように劇しく(はげしく)流行して、健康であった人が発病後五日や七日で亡くなるのを見ると、平生(へいぜい)唯だ(ただ)『如何(いか)に生くべきか』と云う意識を先にして日を送って居る(いる)私達も、仏教信者のように無常を感じて、俄(にわか)に死の恐怖を意識しないで居られません。

(悪性の感染症(スペイン風邪)が、激しく流行して、健康だった人が発病後5日~7日で亡くなるのを見ると、ふだん、「どう生きるか」なんて考えてない私たちも、目の前にある死の恐怖を意識しないでいられません)

 私は死を怖れて居るに違いありませんが、固体の私の滅亡が惜しいからでは無く、私の死に由って(よって)起る(おこる)子供の不幸を予想することの為め(ため)に、出来る限り生きて居たいと云う欲望の前で死を拒んで居るのです。

(私は死を恐れています。

それは私という物質が無くなってしまうのが惜しいからではありません。

私が死ぬことによって引き起こされる、わが子たちにふりかかる不幸を考えると、できる限り生きたい、死にたくないのです。)

 私は今、この生命の不安な流行病の時節(じせつ)に、何よりも人事(じんじ)を尽して天命を待とうと思います。

 『人事を尽す』ことが人生の目的でなければなりません。

 例えば、流行感冒に対するあらゆる予防と抵抗とを尽さないで、むざむざと病毒に感染して死の手に攫取(かくしゅ)されるような事は、魯鈍(ろどん)とも、怠惰(たいだ)とも、卑怯(ひきょう)とも、云い(いい)ようのない遺憾(いかん)な事だと思います。

 予防と治療とに人為(じんい)の可能を用いないで流行感冒に暗殺的の死を強制されてはなりません。

(私は、この生命が危ぶまれるスペイン風邪が流行っている今こそ、何よりも「できることをすべてやった上で、神様の思し召しにすがろう」と思います。

いや神様にすがるのではなく、「人としてできることをすべてやる」ことこそが大事です。

例えば、スペイン風邪に対するあらゆる予防策を尽くさないで、むざむざと感染し死の手に捕まれるなんて、おろかであり、怠けであり、臆病であり、いつまでも悔やまれることです。

予防と治療として、科学的根拠に基づいた手立てをとらずに、スペイン風邪に殺されてはなりません)

 今は死が私達を包囲して居ます。

 東京と横浜とだけでも日毎(ひごと)に四百人の死者を出して居ます。

 明日は私達がその不幸な番に当るかも知れませんが、私達は飽迄(あくまで)も『生』の旗を押立てながら、この不自然な死に対して自己を衛る(まもる)ことに聰明(そうめい)でありたいと思います。

 世間には予防注射をしないと云う人達を多数に見受けますが、私はその人達の生命の粗略(そりゃく)な待遇(たいぐう)に戦慄(せんりつ)します。

 自己の生命を軽んじるほど野蛮(やばん)な生活はありません。

(今は死が私たちを取り巻いています。

東京と横浜だけでも1日で400人の死者を出しています。

明日は私たちが死ぬ番になるかもしれません。

しかし、私たちは飽くまでも『生きる』の旗を立てて、スペイン風邪による死、死すべきではない死に対して、自分自身を守るかしこさを持ちたいと思います。世間には「予防接種をしない」と言う人を多数見ますが、私はその人たちの生命に対するいい加減さに恐れおののきます。

 自分の生命を軽く扱うことほど、野蛮な生活はありません。)

 私は家族と共に幾回(いくかい)も予防注射を実行し、其外(そのほか)常に含嗽薬(がんそうやく)を用い、また子供達の或者(あるもの)には学校を休ませる等、私達の境遇で出来るだけの方法を試みて居ます。

 こうした上で病気に罹って(かかって)死ぬならば、幾分(いくぶん)其れ(それ)までの運命と諦めることが出来るでしょう。

 幸いに私の宅では、まだ今日まで一人の患者も出して居ませんが、明日にも私自身を初め誰がどうなるかも解りません。

(私は家族とともに何回も予防注射をしています。

そのほかにうがい薬も用いています。

また、10人のわが子のうち、何人かを学校を休ませたりしています。

私たちでできる全ての方法を試みています。

自分ができることの全てにとりくんだ上で、スペイン風邪にかかって死ぬならば、それも運命とあきらめることができるでしょう。

幸いなことに我が家はまだ誰もスペイン風邪にかかっていません。

しかし明日はどうなるかわかりません。)

 一個のためと云うよりは、子供達の扶養(ふよう)のために余計に生の欲望が深まって居ることを実感して、人間は親となると否(いな)とで生の愛執(あいしゅう)の密度または色合(いろあい)に相異(そうい)のある事を思わずに居られません。

 人間の愛が自己と云う個体の愛に止まって居る間は、単純で且つ(かつ)幾分(いくぶん)か無責任を免(まぬが)れませんが、子孫の愛より引いて全人類の愛に及ぶので、愛が複雑になると共に社会連帯の責任を生じて来るのだと思います。

(自分のためというより、子どもたちを健やかに育てたいと願うがゆえに「生きたい」と強く思います。

人間は親になるか、なっていないかで「生きたい」という願いの強さが違うのではないでしょうか。

「愛」が「自分自身への愛」にとどまっている間は、「愛」は単純で無責任になりがちです。

しかし、「わが子への愛」を思うことは「全人類に対する愛」につながります。

だからこそ、そのような「愛」は複雑で、全社会のつながりを求めるのです。)

 感冒の流行期が早く過ぎて、各人が昨今(さっこん)のような肉体の不安無しに思想し労働し得ることを祈ります。

(1920年1月23日)

(スペイン風邪の流行が早く過ぎて、みんなが今までのように、病気を気にせず、のびのびと考え、働けるようになることを祈ります。)

おわりに

もへちゃん
もへちゃん

 母の愛の強さを感じさせる文章です。

 おうちの方もきっと与謝野晶子さんと同じような思いを持っているはずです。

 もし父子家庭だったとしたら、お父さんがお母さんの分まで強く「わが子への愛」を持っているに違いないです。

 もしご両親ともいらっしゃらない場合は、生きていたらきっと、一緒に暮らしていたらきっと、わが子の生命を守るため、新型コロナウイルスに対してとりくまれていたはずです。

 さて、学校再開が段階的に実施されていますが、スペイン風邪(インフルエンザ)では、学校がクラスターになり、感染を拡げました。

 与謝野晶子さんも、小学校でわが子1人が感染したことで家族全員、スペイン風邪にかかってしまいました。

「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」

「そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同等の事を子供達に注意しているのです」

と徹底的に政府の方針を批判しました。

「学校が感染予防に本当に人事を尽くしているか」、「行政が、『学校の感染予防のためのお金』を出し惜しみしていないか」、保護者が厳しく点検するのは「人事を尽くす」ことだと思います。

 政府が間違っていることに対して「間違っている」と政府を批判するのは「人事を尽くす」ことだと思います。

 与謝野晶子さんは作家であり、新聞等を使って声をあげました。

 私たちは作家ではありません。

 有名人でもありません。

 しかし、Twitter等で声をあげることができます。

 いわゆるステイホームデモですね。

 そして、政府の間違いを正すことができました(^^)/

 ついこの前「#検察庁法改正案に抗議します」のツイートが1000万を超え、政府が国会での採択をあきらめたではありませんか。

今回は「過去の通信」ではありません

 あっ、今回の記事は「過去の通信の紹介」ではありません。

 先日、NHKであっていたドキュメンタリー「BS1スペシャル『ウイルスvs人類3 スペイン風邪 100年前の教訓」を見てて、与謝野晶子さんのことを言ってたので、書いてみた記事です。

 発行する予定もありませんので、使えると思った方はどうぞどうぞ(笑)

 

 

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