2020/06/19
はじめに

節目の日
今(2020年)から75年前の今日、1945年の6月19日、もへちゃんが住んでいる福岡では、のちに「福岡大空襲」と名付けられた空襲がありました。
日本各地の反戦平和の「節目」
以前、日本全国の空襲について調べた時、1945年のこの時期は、日本中で市民に対する無差別空襲が行われていたことを知りました。
Wikipediaによると1945年の空襲は
- 3月1日 台南空襲
- 3月27日 小倉大空襲
- 4月4日 立川空襲
- 4月8日 玉野空襲
- 4月12日 郡山空襲
- 4月15日 川崎空襲
- 4月20日 倉敷空襲
- 4月21日 鹿児島空襲
- 5月5日 呉市空襲
- 5月10日 徳山大空襲
- 5月31日 台北大空襲
- 6月1日 尼崎空襲
- 6月10日 阿見・土浦空襲
- 6月10日 日立空襲
- 6月10日 千葉空襲
- 6月17日 鹿児島大空襲
- 6月18日 浜松空襲
- 6月18日 四日市空襲
- 6月19日 福岡大空襲
- 6月19-20日 静岡空襲
- 6月19-20日 豊橋空襲
- 6月22日 姫路空襲
- 6月22日 水島空襲
- 6月22日 各務腹空襲
- 6月22日 呉空襲
- 6月26日 奈良空襲
- 6月28日 呉大空襲
- 6月29日 佐世保大空襲
- 6月29日 岡山空襲
- 7月1-2日 熊本大空襲
- 7月1日-2日 呉市空襲
- 7月2日 下関空襲
- 7月3日 姫路大空襲
- 7月4日 高松空襲
- 7月4日 徳島大空襲
- 7月4日 高知大空襲
- 7月6日 千葉空襲
- 7月6日 甲府空襲
- 7月7日 清水大空襲
- 7月7日 明石空襲
- 7月9日 和歌山大空襲
- 7月9日 堺空襲
- 7月9日 岐阜空襲
- 7月10日 仙台空襲
- 7月12日 宇都宮大空襲
- 7月12日 鹿沼空襲
- 7月12日 敦賀空襲
- 7月13日 一宮空襲
- 7月14-15日 北海道空襲
- 7月16-17日 大分空襲
- 7月16日 平塚大空襲
- 7月17日 沼津大空襲
- 7月17日 桑名空襲
- 7月19日 福井空襲
- 7月19日 日立空襲
- 7月19日 銚子空襲
- 7月19-20日 岡崎空襲
- 7月23日 犬山空襲
- 7月24日 半田空襲
- 7月24日、28日 津大空襲
- 7月25日 保戸島空襲
- 7月26日 松山大空襲
- 7月26日 平空襲
- 7月26日 徳山空襲
- 7月27日 鹿児島空襲
- 7月28日 青森大空襲
- 7月28日-29日 一宮空襲
- 7月28日-29日 宇治山田空襲
- 7月29日 大垣空襲
- 8月1日 水戸空襲
- 8月1日 八王子空襲
- 8月1日 長岡空襲
- 8月2日 富山空襲
- 8月5日 前橋・高崎空襲
- 8月5日 佐賀空襲
- 8月5-6日 今治空襲
- 8月6日 広島原爆
- 8月7日 豊川空襲
- 8月8日 福山大空襲
- 8月8日 八幡大空襲
- 8月9日 長崎原爆
- 8月9日 大湊空襲
- 8月10日 花巻空襲
- 8月10日 熊本空襲
- 8月11日 久留米空襲
- 8月11日 加治木空襲
- 8月12日 阿久根空襲
- 8月13日 長野空襲
- 8月14日 岩国大空襲
- 8月14-15日 熊谷空襲
- 8月14-15日 伊勢佐木空襲
- 8月14-15日 小田原空襲
- 8月14-15日 土崎空襲
- 8月22日 豊原空襲
調べた当時は、子どもたちとともに各市町村に手紙を送り、各地の空襲の実態を集めたので1ヶ月以上かかりました。
今は、インターネットであっという間に調べられることにびっくりです。
けれど、インターネットを鵜呑みにはできません
けれど、Wikipediaには、子どもたちが調べた1945年3月27日の大刀洗空襲のことがありませんでした。
大刀洗には、当時、大刀洗陸軍飛行学校がありました。
特攻隊員を教育する本校が大刀洗陸軍飛行学校です。
特攻隊で有名な鹿児島県の知覧は、「大刀洗陸軍飛行学校 知覧分校」です。
節目の日だからこそ
6月19日は、福岡大空襲があった日です。
たくさんの死者、負傷者が出た日です。
その人たちの人生が変わらされた日です。
だからこそ、6月19日に反戦平和の思いを子どもたちに語るべきだと思うのです。
日本各地にあるはずの節目の日。
学校で、家庭で、子どもたちに反戦平和の思いを伝えられてるでしょうか?
今回は、学年通信で反戦平和の思いを伝えようとした「〇〇〇中学校1学年だよりミニ No.32」(2019年6月19日発行)を紹介します。
1945.6.19
福岡大空襲
今(2019年)から74年前の今日、深夜23時11分、博多の町は空襲を受けました。
福岡大空襲です。
想像してみましょう。
あなたが今日の夜、眠って、夜中にふと目が覚めると74年前にタイムスリップしていたとしたら…。
そして目が覚めた場所が博多の町だったとしたら…

新聞等で福岡大空襲の際、撮られた写真が掲載されることがあります。
その中に、雨のように降り注ぐ焼夷弾を写したものがあります。
「火の雨が降る」というのが一目でわかる写真です。
探してみてください。
※焼夷弾…アメリカ軍が、日本の木造の家を効果的に焼き払うために開発した爆弾
福岡大空襲では約2時間で1525トンもの焼夷弾が投下されました。
雨のように焼夷弾が降る中を、タイムスリップしたあなたはどうやって逃げ回りますか?
想像だけならいいのですが、74年前は現実のできごとだったのです。
被害は死者数902人、重傷者数586人、軽傷者数492人、行方不明者数244人、焼けてしまった家12693戸となっています。
十五銀行地下室
大空襲でよく語られる悲劇の一つに「旧十五銀行地下室63人犠牲」があります。
現在の博多座(アンパンマンミュージアムの近くと言った方がわかるかな 笑)の場所に十五銀行は建っていました。

以前読んだ西日本新聞の記事では、十五銀行の悲劇を次のように書いていました。
幼児を抱いたままの母親、壁をかきむしり息絶えた人。
福岡市土井町の旧十五銀行地下室は熱と煙に襲われた。
鉄筋コンクリートの厚い壁に囲まれた「安全」なはずの地下室が、“地獄”に変わった。
狭い通路や倉庫で何十人もの遺体が見つかった。
翌20日早朝、辺りには強烈なにおいが漂っていた。
木れんがでできた歩道はくすぶったまま。
その腐食を防ぐために塗られたコールタールが燃えた刺激臭だった。
地下室のそばにある額縁店の大崎きよさんは現場で手を合わせた。
「コールタールに引火し、銀行の周囲は特に激しかった。そのことが地下室から『逃げられない』と思わせたのでは」
地下室の倉庫には地下足袋や軍需品の生ゴムも積み重ねてあった。
熱で燃え始め、多くの人が一酸化炭素中毒で亡くなったとみられる。
「この悲劇を絶対に忘れてはいかん」
大崎さんは誓った。
西日本新聞より引用
この西日本新聞の記事を元に福岡大空襲の十五銀行のことを平和劇にしたことがありますので、シナリオの一部を紹介します。
(ガラスが割れる音)
「火の入ってきたぞ~」
「はよぉ消さんか。」
「お母さん、臭い。息のできん。」
「何の臭いね?本当に臭かね。」
「軍が保管しとる長靴に火がついたとかもしれんぞ。どっか水道無かか。濡れた手ぬぐいば口に当てといた方がよか。」
(中略)
「ほら、濡らしてきたばい。」
「熱っ、どうしたとや、これ?」
「水道管の破裂して水が出よったとはよかったとばってん、出よる水がくそ熱かったとばい。濡らしてくるの、大変やったとばい。でもこれでちっとはよかろう。」
「みなさん、こんままでは長靴の焼けて煙で窒息するかもしれんですよ。逃げんですか。」
「そうやなぁ」
「ばってんが扉、開けたらもっと火の入ってこようもん。」
「ばってんがこのままじゃ、本当に息のできんごとなるんやないとですか?」
「火を消せばよかろうもん。」
「南無阿弥陀仏」
(扉を開けようとする)「熱っ、とても触れんばい。」
「どいてんや。こげんするったい(服を手に巻き付けて開けようとする)」
「うう~、ぎゃあ~、だめばい。扉の固まっとぅ。」
「どげんすっと?」
「心配なかって。口にタオルの当てて、我慢しよこう。」
(中略)
「母ちゃん、苦しか。」
「こっちおいで。身体ば低くしとき。」
「でも貯まっとる水の熱くてたまらんよ。」
「奥から火が」
2012年度 〇〇〇中学校平和劇シナリオ「夜明け」より抜粋

(ガラスの割れる音)
「あつかけん、明かり取りの窓がどんどん割れよる。外に人のおらんかいな。お~い。」
「おい、田島しっかりせえよ。お~い、誰か」
「ここは、いかんばい。俺ば置いて逃げれ」
「子どもがおるんです。助けてください~」
2012年度 〇〇〇中学校平和劇シナリオ「夜明け」より抜粋

「苦しか~」
「あつか~」
「お~い、誰か聞こえんか~」
「南無阿弥陀仏」
「お母さん、苦しかよ」
「ここは絶対大丈夫っち言いよったのに…」
2012年度 〇〇〇中学校平和劇シナリオ「夜明け」より抜粋
おわりに

「被害の立場」の反戦平和の学習だけしてませんか?
反戦平和の学習を仕組む場合、気をつけなければならないことがあります。
それは「被害の立場」だけでなく、「加害の立場」も伝えることです。
福岡大空襲も「被害の立場」です。
亡くなった方、怪我をした方、家族を亡くした方…たくさんの方々の思いを伝えることはとても大切なことです。
であるなら、日本が同様のことを他国に強いていて、その国々の人々にも亡くなった方、怪我をした方、家族を亡くした方…がいて、その悲しみ苦しみにも思いを馳せさせるべきではないでしょうか?
市民に対する無差別爆撃
福岡大空襲もヒロシマ原爆もナガサキ原爆もその他たくさんの空襲の多くは、民間人をねらった無差別爆撃です。
戦争が始まった頃の空襲は、軍の施設をねらったものでした。
しかし、1937年ナチス・ドイツ軍によるゲルニカ爆撃、1938年日本軍による重慶爆撃で、人類史上初めて市民をねらった無差別爆撃が実行されました。
特に重慶爆撃は、1943年まで200回以上の空襲を行い、約1万2千人が犠牲になったそうです。
市民に対する爆撃の効果を知った他の国々は、無差別爆撃を行うようになりました。
そしてアメリカ軍による日本全国の空襲、そして原爆…とつながるのです。
日本軍が行った重慶爆撃という「加害の事実」を伝えることが、戦争を正しく伝えることになるのです。
加害の立場を教えることに反対の人
日本の加害の立場を教えることに否定的な方もいらっしゃいます。
しかしその姿勢は、アメリカが「原爆を落としたことで戦争が早く終わった」と自らを正当化するのと同じ姿勢です。
「過去の歴史に学ばない者は、過去の失敗を繰り返す」と言います。
「被害」と「加害」の両面で、戦争という過去の歴史を正しく学ぶことが大切だと思います。
コメント