2020/09/30
はじめに

合唱曲「青葉の歌」にとりくんだのは、当時中2だったもへちゃん組の子たちです。
この子たちは、2学期になり、修学旅行前に、2つの遺書について考える道徳の授業を受けました。
1つは、このブログでも紹介した日航機墜落事故・河口博次さんのメモです。
もう1つは、特攻隊の方が残した遺書です。
その授業を受けた子どもたちは、南九州への修学旅行に出かけ、知覧特攻平和会館で
- 安らかにお眠りください
- 2度と繰り返しません
と誓ってきました。
修学旅行の次の行事が合唱コンクールでした。
もへちゃん組の子たちは「青葉の歌」を選んだので、特攻隊の方と「青葉の歌」の歌詞とをつなげたのが、今回紹介する通信です。
では、歌詞解説シリーズ第11弾、合唱曲「青葉の歌」について書いた通信「学級記録 No.47」(2006年9月28日発行)を紹介します。
青葉の歌
青葉の歌
作詞 小森香子、作曲 熊谷賢一
ラーララララララ
ラーラララーラララーラララ
きらめけ青葉よ
さわやかにそよげ心よ
いつかきっとそんなふうに
明るい日ざしのような愛で
世界中をつなぐ日が
きっときっとやってくる
きらめけ青葉よ
さわやかにそよげ心よ
(中略…歌詞全文および合唱動画は「もへちゃん先生の学級通信の資料置き場」へ)
世界中をつなぐ日が
きっときっとやってくる
きらめけ青葉よ
手をのべてつかめ心を
心を 心を 心を 心を
この歌詞を見て、僕は次のような物語が頭に浮かんだ。
時は61年前の初夏。
知覧基地から特攻隊として数日後に飛び立つことになった若者。
まわりに人がいるときは「お国のため」と威勢のいい言葉をのこしているが、1人の時は(いや、物語としては「心を許せる親友といるときだけは」の方がいいかな)狂おしいほどに平和な世の中を求めていた。
彼には故郷に残してきた恋人がいたからだ。
「彼女を守るために特攻するのだ」
と自分に言い聞かせながら、一方でいなくなってしまう自分、そして残される恋人のことを考えると
「なぜ僕たちは、戦争のある時代なんかに生まれてしまったのか」
と悔やまれてならない。
そして、いよいよ飛び立つときが…
三角兵舎から飛行場に向かう木立の中、木漏れ日をあびながら、


静かに、しかし強く平和を願う彼の気持ちが歌になって流れ始める。
それが青葉の歌だ。
短い物語だけど、そう思いながら「青葉の歌」を歌うと、魂がこもって、すごい歌になるような気がするんだ。
もう一度、歌詞を味わってごらん。
「知覧特別攻撃隊 村上薫編」の表紙の写真から

無邪気に子犬を抱く彼らには、愛すべき家族・恋人がいた。
若く純粋な彼らは、愛する人を守るために死んでいった。
正義のためと信じ…。
片道分の燃料だけ積んだ飛行機に乗り、爆弾を抱えて敵艦に体当たりしていった。
日本の平和のためと信じ…。
飛行機の中で、2度と帰らぬ故郷に、彼らは何を思ったのか。
戦争で失ったものは計り知れなかった。
得たものはあまりにも少なかった。
おわりに

合唱曲「青葉の歌」は、美しいメロディのさわやかな合唱曲です。
そんな歌を特攻隊に結びつけて、「平和を願った思い」と解釈したのは、強引だったかもしれません。
「青葉の歌」は平和を願って作られた?
しかし数年後、ある音楽の先生から

「青葉の歌」は平和を願って作られた歌ですよ
と教えてもらいました。
作詞者の小森香子さんは、詩人であり、東京原水協、日本平和委員会理事、日本子どもを守る会理事などを務めた平和活動家でした。
「青葉の歌」は、彼女が30代半ばの頃の作詩で、

子どもを守る運動や婦人運動、文学運動や平和運動の中で、しかも姑、小姑のいる家庭で2人の子を育てながら、思いっきりはばたげない苦しさ、仲間でいながらわかってもらえない対人関係の悩みなどが、心の底に積み重なっていた(うた新1985年11/11号)。
そんな時、親しみある小石川植物園で、ふと仰いだ青葉のきらめきが
「無数の小さい鈴のように声を上げ」
生きる力をくれた
そうです
詞が歌になり、見事に小森さんの心の動きをとらえたメロディに驚嘆したのだそうです。

雪山で亡くなった娘(小森まどか=切り絵作家)が、この歌をよくギターで弾き語りしていたのも、今では励みの思い出となっている
とも話されていたそうです。
合唱曲「青葉の歌」は、きらめく青葉の描写を通して、世界平和と人類愛を訴えかける小森さんの強いメッセージが込められている歌だったのです。
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